2016年12月31日土曜日

2016年を振り返る

光陰矢の如し

油断していたらあっという間に大晦日。今年も色々な出来事がありましたが、時系列に振り返ってみます。

1月〜3月
4回目のフルマラソン完走を目指し、なかなか充実した練習ができたと思います。体重が増える一方で、食事制限をしてもまったく減らせなかったことを除いては。20km強のロング走を何度か走り、体調も万全で過ごせました。体重が増えたことを除けば

4月
4回目のフルマラソンは前半に足を痛めるアクシデントはあったものの、プランどおりに走れた上に、自己ベストも大幅更新できて満足のレースでした。マラソンの興奮も冷めやらぬ中起きた大地震。とても身近な土地である熊本と大分に甚大な被害が発生し、今なお不便な生活を強いられている人のことを思うとやるせないです。1日も早く両県が震災前の大らかでハッピーな暮らしに戻れますように。震災復興の思いも込めて、2016年は熊本と大分の温泉を重点的に攻略することにしました。結果的にはあまり行けなくて残念でしたが、今後も足を運び続けたいです。

5月〜8月
7月のある日、テニスをやった翌日に右膝が腫れ上がり、90度以上曲げられない、当然正座も出来ない、痛みで体重をかけられない状態に。数日湿布を貼って様子を見たものの一向に改善せず、病院でMRIを撮ってもらったら半月板が割れていることが判明しました。この日から約2ヶ月間、一切走れない状態になりましたが、水中ウォーキングをするために夏の間は毎日プールに通いました。また、母の肺がんが発覚したのもこの頃です。昨年は「働きすぎた」感が強かったので、自分の時間を確保するために2割くらい仕事をセーブするつもりだったのですが、母のがんがきっかけで仕事を休むことが増え、佐賀に帰る回数も激増しました。幸い早期発見だったので、手術後半年以上経っても再発の兆候はありません。

9月〜10月
9月に福岡で初の自主勉強会が開催されました。当ブログでも紹介しましたが、関東、関西で活躍中の翻訳者によるレクチャーと懇親会に参加。多くの方にお会いできて実り多い1日となりました。また、10月は広島の医薬翻訳者勉強会に遠征。現役医師によるがん治療についての興味深いレクチャーを拝聴する機会に恵まれました。スケジュールの都合で日帰りとなりましたが、広島にはまた行ってみたいと思います。お好み焼き美味しかったです。

11月
父にも肺がんの疑いがあると母から電話があったのは11月。まだ先月のことです。術前の検査などでほぼ毎週のように佐賀に帰りました。仕事にも多少の影響は生じました。

12月
父の肺がん手術のために数日仕事を休んで佐賀に帰りました。もうすっかり元気ハツラツ、がんになったことが嘘のように復活しています。父が弱々しかったのは術後数時間だけで、翌日にはもうスタスタ歩きまわっていたので家族全員安堵しています。あとは、痴呆症で徘徊なんてことにならないよう祈るだけです。

秋以降は何かと忙しく、気がついたら大晦日というのは誇張でもなんでもないです。先日、会計ソフトで今年1年の売り上げを確認してみたら、4割ほど減少していました。来年以降も家族の事情で休むことが減ることはないでしょうから、モバイル環境の整備も含め、働き方を見直す必要もありそうです。

2017年も引き続き、よく働き、よく遊び、よく食べ、よく飲む1年を目指します。フルマラソンはもう無理かもしれませんが、10kmレースには出たいです。近所のスーパー銭湯やマッサージなど、ささやかなストレス解消をもっと増やさないと体が持ちません。

2016年12月29日木曜日

父、がんになる その8

12月2日に入院、5日に手術、15日に無事退院した父。年末の慌ただしい最中、12月27日に血液検査、CT検査を受け、手術で切除した組織の病理検査の結果を聞きに行くのに同行した。朝6時に起きて朝食を食べ、7時過ぎまだ暗い中を車で佐賀へ。

実家に着くと入院前と一切変化がない父がいた。退院当日に電話で話したときは「どこも痛くない。お母さんの痛がり方はちょっと大げさだったと思う」という発言をしていたのだが、この日は「家に帰ってきてからは痛い。腕を動かすと傷口が痛いのは仕方ないけど、胸の中が痛い。まあ、困るほどじゃないけど」と言いながら家の中を落ち着きのない小動物みたいに動き回っていた(年末なので正月の準備やら何やらやることが山積みらしい)。

病院の中では同行した母の車椅子と悪戦苦闘する私をよそに、自分だけさっさと検査を受けに行き、検査終了後に診察室前で待つ私らに合流。動くと息が切れると言っていたはずだが、あまり息が切れているようには見えない。座ったかと思うと「お茶飲む?」と聞くや否や病院内のコンビニにお茶を買いに行ってしまった。呆然とする私に「何も変わってないやろ?週末おばちゃんが来てくれたけど、どっこも変わってないってびっくりしてたよ」と言うくらい、本当に機動性が一切落ちていないのだ。

診察まで随分待っていたのだが、父が突然他の人に「あら、こんにちはー!」と話しかけた。地元だし、田舎だから知り合いとばったり会うのも珍しいことではないが、後で聞いたら同じ病室に入院していた人らしい。二人の会話から「同級生」というワードを小耳に挟み、相手の方が父と同じく白髪の老人だったので「父の同級生が娘に付き添われて診察に来ている」のだと思った。

「違うよ!えみちゃんの同級生よ!」

えみちゃんというのは実家の近所に住む父の従妹で、父が入院中脚が悪い母に代わって病院に洗濯物を取りに行ってくれていた。ちなみに「えみちゃん」は64歳である。単に老けて見える人だった。付き添っていたのは娘さんではなく、奥さんだったのだ。

えみちゃんの同級生という男性は同じく肺がんで手術したものの、がん細胞の位置が悪かったため手術で取りきれず、来月から抗がん剤治療を受けなければならないと、やや辛そうな顔で父に話していた。同じ病室にいた別の男性は手術を受けられないほどがん細胞が広がっていて、今日から入院して放射線治療を受けているという話もしていた。

「お父さん、同じ病室にそういう深刻なステージの人がいるといたたまれなくなるよね、普通?それなのに、お父さんはそういう人たちの前で「芋ケンピ」をポリポリ食ってたわけよね?」と問い詰めると、「もう1人の人は夜中にお菓子ポリポリ食べよったよ」と責任逃れを始めた。

病理検査の結果、扁平上皮がん組織が80%、腺がんの組織が20%混在していたらしい。こういう2種類のがんが一緒にできてしまうことは稀なことではないらしい。がん細胞は手術で取りきれていたものの、間質性肺炎の経過も注視しなくてはならないため、今後は3か月ごとに検査を受けることをすすめられた。手術の動画をダイジェストで見せてもらった。肺が胸腔壁に癒着していたのは、過去に肺炎にかかったためらしい。自覚症状がなくても軽い肺炎にかかることは珍しくないし、肺が胸腔壁に癒着したからといって特に不便は生じないのだそうだ。

母の手術を執刀した医師が、佐賀医大から異動になって県立病院勤務になるらしいので、これを機会に母も転院してくれると手間が省けて助かるのだが。ちなみに、母は前日検査を受けていて、転移もなく、次回は7月に検査を受ける予定。

今年は夏前に母のがんが判明して以来、仕事をかなりセーブした。スケジュールが不確定な案件や、手術前後のタイミングでの打診はお断りした。その結果、今年の売上は昨年に比べると大幅ダウンとなった。仕事をセーブすると当然収入は減るのだが、時間に若干余裕ができて、心があまり荒まなかった。

仕事もアルコールも適量が大切だ。

2016年12月18日日曜日

父、がんになる その7

手術の6日後となる12月11日(日)、母から電話がかかってきて「お父さん火曜日に退院できるって。今日担当医の先生が来て火曜日に退院していいですよって言ったらしいけど、まだリハビリ中は酸素ボンベ使ってるのに退院して大丈夫かね?」と退院予定に異議を訴えられた。翌日、父が担当医に「リハビリ中は酸素ボンベ使ってますが、退院しても大丈夫ですか?」と確認したら「あ、そうなんですか?じゃあ、リハビリ担当の先生に確認してみます」と言われたらしい。

そろそろ横断的に情報を共有してくれないか??

結局、手術から10日後の12月15日(木)に父は退院した。平日ど真ん中ということもあり、近所に住む親戚が病院に迎えに行ってくれたらしい。自宅に戻った父から電話があり「風邪引かないようにって言われたからマスクしてる。外には出ないようにする」と、若干的外れな発言が出てきたが、外から帰ってきたらうがい・手洗いを徹底するように伝えた。退院当日に父から聞いた状態は以下のとおり。


  • 安静にしていれば痛みも苦しさもゼロ
  • 歩いたりして動くとすぐに息が上がる
  • 息が上がるが「苦しい」という感じではなく、ちょっと休憩するとどうということはない
  • 腕を動かすと傷跡にちょっと痛みを感じることがある
  • 母が訴えるような胸や背中の内側からくる痛みは全くない
  • 「お母さんはやっぱり大袈裟なんじゃないか?w」


父ががんになって手術を受けたことは母方の親戚には言っていない。父方の親戚も近しい相手にだけ伝えている。元日は毎年母の実家に親戚が集まって食事会をするのだが、子供も何人かいる(私のいとこの孫)。子供経由で風邪をうつされるのが正月一番の懸念材料。ゆえにきちんと病気のことを伝えて、もし風邪を引いている子供がいれば父は参加しないようにすればいいのでは?と思うのだけれど、高齢者は必ずと言っていいほど「無用な心配をかけるし、お見舞いをもらったらお返しをしなくちゃいけないから言わなくていい」と譲らない。こういう考え方は結果的に面倒を招くだけなのだが、うちの両親の病気に気を遣った姑が「ちょっと申し訳ないから正月の温泉をキャンセルしてくれ」と強固に主張したことからもわかるよう、無用な心配は止めることができないから受け入れるほかにないのだ。

年末は26日に母の通院(術後約半年の診察と検査)、翌27日は父の病理検査の結果が出る。今後も両親とも定期的に検診を受けてがんの再発がないかを確認することになるのだが、母は「再発したとしても治療はしない!」と明言している。できれば文書化してほしい。父は逆に「手術は厭わない」のだが、本人の意思とは裏腹に再発しても治療する道はない。

今年は高齢の親が入院手術をする大型イベントが繰り返されたため、仕事をかなりセーブした。もちろん収入も大幅減だ。親の介護をするか否かは別にして、車椅子の扱い方を練習しておくことをみなさんにオススメしたい。思った通りに動かすことは意外に難しいのだ。断捨離も早くから取りかかっておくと良いと思う。今回、母から古い写真を数枚と、ひいばあちゃんからもらった指輪を「生前形見分け」してもらった。「生前形見分け」については、祖母が死んだ時に私がもらう予定だった着物が別の親戚に譲渡されていて、私の手に渡らなかったことを反省して前倒ししたのだ。



結論:「フリーランス=時間が自由になる人」と思われがちだが、実際はさほど自由ではないし、休んだら当然売り上げが減る。どの程度までなら休めるのか、どの程度までなら売り上げが減っても大丈夫か、急に3日以上(あるいは1週間以上)休まなければならなくなった時のクライアントへの対応も含めて今のうちから決めておくといいと思う。そして何事もこちらが意図したとおりにはいかないものだ。


追記:父は術後数日で予想どおり自由に買い食いをして誰に怒られることもなくおやつを楽しんでいたらしい。入院ダイエット失敗。


2016年12月9日金曜日

父、がんになる その6

12月5日(月)に手術を受けて肺の一部を摘出した父は、術後ICUで術後管理を受けた。ICUで面会した父は、来年80歳になる高齢者らしく弱々しい姿で痛みに呻いていた。その姿を見た母は涙を流しながらICUを後にした。

と、ここまでが前回のお話。

翌12月6日(火)の正午ごろ病院から電話がかかってきた。「今日の午後2時ごろ、予定通りに一般病棟のほうに移ることになりました」と。その時点でも母は「え?そんなに早く戻して大丈夫かね?」と半信半疑だった。ICUに入るために一旦すべての荷物を持ち帰っていたため、再度キャリーバッグに詰めた着替えや洗面道具を持って病院へと向かった。ただし、私と母の2人で。これが思った以上に大変だった。まず、私はへなちょこで非力だ。しかもキャリーバッグにはキャスターが2個しか付いていない。従来のスーツケースのように押していくことができない。しかも扱い慣れない車椅子を押して母も運ばなければならない。母とて車椅子を自分で操れるほどには慣れていない。片手でキャリーバッグを引っ張りながら、もう片方の手で車椅子を押すのだが、非力な私にうまく操れるわけもなく、見かねたお年寄りが颯爽と助けてくれた。

やっとの思いで呼吸器外科の病棟にたどり着くと、「もうすぐ戻ってこられますのでお部屋でお待ちください」と個室に案内された。この個室が狭い。差額ベッド代が¥4,000の個室だから仕方がないが、部屋にトイレがあるだけで車椅子を置く余地もない。病室入り口でまたもや車椅子とキャリーバッグに悪戦苦闘していると背後から「ありゃ?見舞客の方が病人らしかね!」と呑気な声が。車椅子で運ばれてきた父である。私たちがジタバタしている姿を見て笑っている。

「あ、お父さん。痛くない?」と声をかけるやいなや、すっくと車椅子から立ち上がり「ん?大丈夫よー」と言うと自分の足でスタスタとベッドまで歩いて、どっかりとベッドに横になった。どうやら自分でトイレにも行けるらしい。明らかに母よりもモビリティ性能が高い。手術翌日なのに。

「ご飯は?今夜から?」と聞くと「いや、お昼ご飯食べたよ。えーっとね、ハンバーグとクリームシチューやったけど、クリームシチューは好かんけん食べん。あとは全部食べた」と平然と答える。手術当日の夜は痛み止めが効いてぐっすり眠ったらしいが、ICUは退屈でテレビを持ってきてもらって見ていたらしい。翌朝痛みがあったものの、薬を飲んだら止まったらしい。ICUのテレビは無料だったので助かったと喜んでいた。まだ胸腔内ドレーンやら痛み止めのチューブやら酸素チューブやら点滴やら付けられているものの、普通に話して普通に動いている。バッグにしまったテレビカードを取り出そうと寝たままバッグの中をゴソゴソやっていたが見えなかったらしく、「ちょっと、手を引っ張って起こしてくれ」と言うので、父の手を握って引っ張った。父は握力も腕力も私より数段強く、しかも太っているので重い。おまけに私は左手首は腱鞘炎、右肩は1年以上前から痛めている。「痛い!痛い!お父さん、引っ張らんで!」とギブした非力な私は、ベッドのリクライニングボタンを押して上半身を起こさせた。

トイレに行くときはナースコールをして毎回看護師さんにきてもらってドレーンをつなげた機械のコンセントを抜いたり、酸素チューブの延長チューブを付けたりと手間がかかる。世話焼きな母は「ちょっと付いていた方がいいかな?」とたいして動けもしないのに病院に残ると言いだしたので、母を置いて私は福岡に戻った。数時間後に母を迎えに行った弟は手術前とほぼ変わらない状態の父を見て呆然としたらしい。

翌12月7日(水)の正午前、母から電話があった。「あんたが帰った後にリハビリしましょうって看護師さんが来てね、お父さんがチューブ付けて点滴スタンド押してナースステーションの周りをスタスタ3周くらい歩いてね。本当に昨日手術した人かな?ってくらいによく動くのさ。ちょっと驚いたよ」と報告してきた。その後、弟から「酸素以外全部のチューブが外された」と報告メールが届いた。もちろん出てきた食事はすべて完食しているらしい。父に電話してみると「一日中テレビ見てる。退屈だ」とこぼしていた。

翌12月8日(木)、またも弟から「大部屋に戻ったよ」と報告メール。酸素チューブはまだ付いているものの、本人はすこぶる元気らしい。なんなら週末にでも退院できそうなくらい元気ハツラツらしい。本人的には何もかも完治して100%復帰したような気分らしい。重要なことだが、肺がんは摘出できたものの、間質性肺炎はそのままである。今後ちょっとしたことがきっかけであっという間に増悪して命を落とすリスクはまったく減っていないのだ。

あまりに順調な回復ぶりに家族は全員驚いている。くも膜下出血の手術をした時もそうだった。「何の後遺症もなく発病前と同じ状態での社会復帰はおそらく望めない」と言われたのに、何の後遺症もなく3週間で退院したのだ。多分、週明け早々に退院するんじゃないだろうか?と思っている。母はすべてが予定より2日遅れだった。その時に医師から「高齢ですから、予定より遅れるのが普通なんですよ」と言われたのだが。同じく高齢の父は尋常ならざるスピードで回復して、正月はたらふくごちそうを食べるに違いない。「正月に病み上がりの父を連れて実家に行くのは神経遣う」と言っていた母だが、どう考えても母の方が「病み上がり度」が高い。

きっと今頃父は病院内のコンビニで「おやつ」を買い食いしているに違いない。

2016年12月5日月曜日

父、がんになる その5

手術直前になり「がんじゃないかも?」という驚きの展開になり、若干気が緩んだ我が家。手術前日は福岡から夫が来て鍋を囲んだ。もちろん、父は病院なので囲めないのだが。

手術当日、午前8時半前に病院に行くと、父の従姉妹2名がすでに来てくれていた。本人もいたって呑気。予定時刻に歩いて手術室に向かう。家族は院内専用PHSを渡され、待合室でコーヒーを飲みながら待つ。父の従姉妹と母がおしゃべりで盛り上がっている目の前でネトフリを見るのははばかられるので自重した。途中、交代で昼食をとったが、後半グループが昼食に出た直後、午後12時過ぎにPHSで呼び出されて執刀医から途中経過の説明を受ける。説明室にはモニタがあり、手術のライブ動画が絶賛放映中である。

私と弟はライブ動画に目を奪われてしまったが、執刀医の話では腫瘍は扁平上皮がんだったらしい。肺を見ると、長年の喫煙習慣でダメージが蓄積されていたため、左上葉部を全部摘出した場合の肺機能低下が予想より大きくなりそうなことと、悪性腫瘍はすっぱりと切除できたので部分切除だけで十分だと説明を受けた。「このまま部分切除でいいと判断しているのですが、ご家族がもし上葉を全て切除したいというご希望であれば開胸して切除しますがどうしますか?」と聞かれた。内心、随分ヘヴィな質問をぶつけてくるなーと思いつつ、弟も私も瞬時に「部分切除でいいです」と答えた。その後もライブ動画を見ながら待ちたかったのだが、待合室に戻らされた。

それから1時間半ほどしてICUに移った父との面会が許可された。ICUでは患者1名につき看護師2名が付いて術後管理をしてくれる。本来なら、母の時もICUで術後管理を行う予定だったが、たまたまICUに空きがなくて個室で私が付き添う羽目になったのだ。術前は軽口を叩いていた父だが、年齢相応の弱った高齢者に見えた。「お父さん、痛い?」と聞くと辛そうな顔つきで「今まで受けた手術で一番痛い。予想より随分痛い」と言う。部分切除で済んだと伝えると「じゃあ、退院したら現場に出れるな」と言って母に怒られていた。

術後の説明は特になく、すぐにICUを後にした。問題が起きなければ明日中に一般病棟に戻ってリハビリを開始するらしい。母は涙ぐみながら「きつかったやろ?また明日来るからね」と声をかけていたが、私も弟も「お母さんの時に比べると随分楽そうで良かった」と胸をなでおろした。母は私と違いエモーショナルな人なので、すぐに涙ぐむ。昨夜も夕食の後、もう40年も前に死んだひいばあちゃんの最期の看取りをうちでできなかったことを悔やんで泣いていた。

ひとまず今の段階でがんに対してベストと思われる対処は完了したわけだが、今後も親が病気になるたびに「調べる」、「話し合う」、「決める」を繰り返すのかと思うと若干気が重い。その一方で、先日近所の親戚が多系統萎縮症であることがわかり、しかも病状の進行が非常に早く、歩行も困難になっている姿を目にしたばかりなので、うちの両親のように「がんだけど早く見つかって切ったら治った(治る)」のは非常に幸運だと思った次第。QOLの低下は年齢による部分も大きいので、如何ともしがたいのだけれど。

明日の夕方には福岡に戻るが、今年は例年になく実家に帰った回数が多かった。先月からはほぼ毎週のように佐賀に来てるし。何気なく母と弟がご近所さんの家に新しいテレビが届いた話をしていて、それを聞いた夫がぎょっとしていた。田舎の情報網はアナログだけど感度が高いのだ。



2016年12月4日日曜日

父、がんになる その4

数々の検査の結果、肺がんの疑いが非常に濃厚ということで入院、手術となった父。12月2日に佐賀県立医療センター好生館に入院した。この日から私は仕事を休んで実家に戻っている。

仕事を休むかどうかはちょっと悩みどころだった。7年前に祖母の介護手伝いで実家に戻っていた数週間は仕事を休んでいない。取引先が1件だけで、1日3〜4時間やれば納期には間に合ったからだ。PDFの原稿をデスクに置いてWordにベタ打ちするだけだったのでノートパソコンでもできたのだが画面が手狭だったので、当時使っていたiMac G5を車に積み込んで実家でセットアップして仕事をした。ちょうど新しいiMacに買い換えたタイミングだったので、G5はそのまま実家の弟にあげた。今はWindowsでTradosを使い、オンラインCATツールを使う案件ではMacを使っている。辞書環境は極力統一させているし、ファイル(スタイルガイドなど)はクラウドに保存しているのだが、MacBookはブートしていないのでWindows環境をモバイルできない。クライアント数が増えていることと、至急案件が飛び込んでくることが多い時期でもあり、タイミングによっては対応できないので思い切って佐賀にいる間は仕事を休むことにした。今後仮にMacBookにWindows入れたとしても、普段はデュアルモニタで作業しているのに、ノートパソコンの画面だけでは老眼には厳しすぎるので、実家にモニタを1台置くことを検討中。

閑話休題。

入院した父は相も変わらず元気いっぱいで、受付で名前を呼ばれると走り出さんばかりの勢いで動き回る。荷物(キャリーバッグとショルダーバッグ)を一人で持って速足でどんどん歩いていく。誰がどう見てもついてきた母のほうが入院患者っぽい。

入院手続き後は麻酔やら輸血やらの同意書の説明と署名。入院中のスケジュール説明などあらゆる説明を受ける。午後4時前に執刀医からの説明。「カンファランス室」(カンファレンスじゃないのね)で大型モニタにレントゲン画像やCT画像を出しての説明、ホワイトボードを使って検査結果や術式の説明などが行われた。

実は入院前日、執刀医から父に電話がかかってきていた。父>母>私と伝言ゲームで聞いた劣化情報では「組織検査の結果でナントカっていう、昔で言うところの結核の菌が出てきて、感染する結核じゃないけど明日説明しますってよ」と謎の情報だけを伝えられて困っていたのだが、この件もクリアに説明を受けた。

3週間前に行った気管支鏡検査で採取した組織を培養した結果、抗酸菌が検出されたらしい。3週間前には検出されていなかったので、その時点では肺の腫瘍は悪性腫瘍の疑いが濃厚だったが、抗酸菌が検出されたとなると「非結核性抗酸菌症」の疑いが濃厚になってきたという話だ。ところが抗酸菌は薬物に対して耐性が強いらしく、7割ほどは薬物治療の効果が出ないらしい。悪性腫瘍である疑いも依然として否定できないため、手術でまず部分切除を行い、その場で簡易検査を行いがん細胞の有無を確認。がんでなければ部分切除のみで終了、がんであれば左肺上葉部を摘出することになった。執刀医の予測ではがんでない確率のほうがやや優勢らしいが、こればかりは実際に組織を見てみないと判断はできないらしい。

この説明の場には、手術に立ち会う研修医や看護師も同席していて、ちょっとした授業形式だったので面白かったのだが、暖房でぼーっとしていたためメモを取ることをすっかり忘れていた。父は途中から「聞いているフリ」だけで、最後に「頑張ります!」と宣言して終わった。

抗酸菌というのは土中に多く存在する菌らしい。10年ほどかけて結節を形成するらしい。父が庭仕事を趣味としていることと何か関連があるのだろうか?ただ、腫瘍マーカーでがんを示唆する数値が、しかもかなり高い数値で出ていたことはどういうことなのだろうか?まだ不明な部分が残っているのだが。もし抗酸菌症であれば、肺機能の低下も少なくて済み、術後の回復も早いので安心なのだが。

母が手術した時と違い、硬膜外麻酔を使って術後の痛みを軽減させるらしい。痛みの緩和方法は病院によって異なっているのだろうか?

ところで、説明の前に執刀医からも(私が送ったクレームに対して)深々と陳謝された。母は「なんでこの病院はいちいち謝るんだろう。確かに手際が悪かったけど、なんで?」とずっと疑問だったらしい。夕食の席で弟が「姉ちゃん、クレームメールに何て書いた?そうとう厳しいこと書いたやろ?こう毎回謝られるとカルテに『要注意』って書かれとるとしか思えん」と言い始めた。ここで初めて母にクレームメールを送ったことを話したら驚きつつ、「でもまああの対応は変だったしねー。それにしてもあんた、何て書いた?」と問い詰められている。

母の入院の時も今回の父の入院もそうだけど、執刀医が呼吸器外科部長という肩書きなのだけど、どう見ても私と同年代なのだ。ぼんやりと「そうかー、企業で働いていたら部長世代なんだなあ」とどうでもいいことを考えた。

2016年11月24日木曜日

父、がんになる その3

去る11月22日、早朝から車を運転して佐賀の実家に帰り、弟の車で家族揃って佐賀県立医療センター好生館へ向かった。

ところで、うちでは家族全員で出かける時に弟の車で弟に運転させることが常態化している。昔は免許を持っている3人(父、私、弟)がじゃんけんで決めるか、免許を持っていない権力者(祖母)が運転手を指名していたが、最近は弟、もしくは「婿殿(酒好きではない)」が運転手を務める。そして、両親と私は車が停止する前にシートベルトを外して弟の車のアラームをガンガン鳴らして毎回文句を言われる。今回も病院入り口の数十メートル手前で弟を除く全員が一斉にシートベルトを外したために、弟の北欧車のアラームがけたたましく鳴って(国産車よりうるさい)、「なんでもう!あとちょっとの辛抱やん?なんで全員でせかせかする?!」と注意された。

最初に循環器科で狭心症の定期検査を受け、呼吸器外科の診察(病状と手術を含む治療の説明)の流れだったのだが、移転して間もない新しい病院なのにとにかく狭い。さして広くない廊下にベンチを並べて待合スペースにしているので、車椅子がすれ違おうとしても離合できない。普段車椅子を押すことに慣れていない私(全員慣れていないのだが)が脚の悪い母を乗せた車椅子を押しつつ、あちこちにぶつけながらバックのまま雑に動き回るわけだから、母が途中で「やっぱり来るんじゃなかった」と愚痴り始めた。

循環器科の診察にも家族全員で参加して、手術に心臓が耐えられるかを聞いた。心臓は大丈夫なのだが、診察の数日前に脚立から転落した時につくった脚の擦過傷が化膿しているので、膿を出さないと危なくて手術はできないらしい。脚立に登って(しかも最上段)落ちたことといい、家に消毒薬を常備していないことといい、かかりつけの病院でいろいろと突っ込まれたらしいが。

呼吸器外科では若い女性の担当医がいきなり椅子から立ち上がると「先日は配慮が足りず申し訳ありませんでした」と頭を下げて謝罪した。両親も弟もキョトーンとしていたのだが、その謝罪は明らかに私に向けられている。私は意外にもさほど根に持つタイプでもないので、さらっと受け流して改めて担当医の説明を聞いた。


要点を箇条書きにしてみる。


  • ほぼ間違いなく肺がんであるだけでなく、腫瘍マーカーの数値から判断するとステージIの割に進行が早い
  • そのため手術は年内に、できるだけ早く受けた方がいい
  • 間質性肺炎があることは確実だが、幸い初期の段階である
  • ただし、間質性肺炎が増悪する可能性があるので、抗がん剤と放射線は選択肢から外れる
  • 外科手術で区域切除をした場合、再発した時に再度外科手術をするのは年齢的に負担が大きいので、左肺上葉部をすべて摘出してリスクを減らす
  • 切除後に残った肺がすでに間質性肺炎により機能が低下しているので、肺機能は正常時の40%程度にまで低下する見込み(現時点で70%程度)
  • 術中に間質性肺炎が増悪する可能性は10%程度、そのうち死に至る確率は50%弱
  • 単純な確率だけでは、原発性の肺がん(初期)の術中の死亡率の10倍
  • とはいえ、肺がんと間質性肺炎を併発している患者の中ではリスクが低い方である(両方とも初期であることと、本人に体力があることから)
  • 手術をしない場合の余命は5年未満と予想される
  • 手術をして、間質性肺炎の進行を遅らせる治療をした場合、他に重篤な疾患がなければ寿命を全うできる可能性は高い
  • 日常生活は酸素ボンベ無しでも問題なく送れる見込みである

というようなことを淡々と説明された。あまりに淡々とした、若干自信なさげな口調なので「やる気あるのかな?」と思ってしまった。たまにこういう淡々とした口調の医師を見るのだが、過剰に明るくする必要はないが病人というのは多かれ少なかれ不安を抱えているのだし、もうちょっと話し方を考えた方がいいと思った。こういう点は、精神科医を手本にするといいのではないだろうか?母の担当医と執刀医は過剰に元気すぎず、それでも力強い話し方でとても安心できた。ただ、執刀助手の女性医師がちょっと頼りなかったが。若さゆえなのだろうか?


私が幾度となく説得したにもかかわらず、父は別の病院で治療を受けることを頑として拒んだ。カルテのデータが佐賀大学付属病院ともネットワークで共有されていることも承知の上で、それでも好生館がいい、九州がんセンターには行かないと言い張る。母と弟が「でもね、何かあった時に一番頼りになるのは姉ちゃんなんだから、姉ちゃんの家から近いがんセンターがいいよ」と口添えしたにもかかわらず、首を縦に振らない。最後には母が「お義母さんに似て頑固だからね」と諦めたので、私も諦めた。



福岡の自宅に戻ってから、私も本格的に自分のエンディングノートにいろいろと書き足した。今回は海外のクライアントからのメールに返信するための英文メールテンプレを作ってクラウドに保存し、ファイルの保存場所をノートに書き留めた。コピペするだけで相手に私が死んだことが伝わるシステムだ。「病気で入院編」と「ケガで入院編」も作っておいた。日本語のテンプレも作っておくべきだろうか?いろいろ書き留めながら、これはもうフォルダを作ってすべてデジタル化しておいたほうがいいと思った次第。「さすがIT翻訳者は違うな!全部デジタル化されてるぞ!」と盛り上がるに違いない。そしてMacを使えない夫がムキーッとなればなおよい。

2016年11月16日水曜日

父、がんになる その2

去る10月29日に広島市で開催された広島医薬翻訳勉強会に参加して、がん治療に関する有益なお話を聞いたのに、なかなかそれを活かせずに忸怩たる思いでいる。

10月14日(月)に父を佐賀市内にある県立病院(正式名称:佐賀県医療センター好生館)に連れて行って、呼吸器内科で受けた検査の結果を聞き、外科へバトンタッチとなった。翌10月15日(火)、父は一人で再び病院を訪れた。なぜ一人で行ったかというと、呼吸器内科の医師が「明日の外科の外来は一人でいいですよ。検査結果とか手術の説明はご家族と一緒に来てくださいね」と言ったからだ。

ところが、病院に行ってみると外科の医師に「お一人なんですか?ご家族は?手術の説明するのでご家族一緒じゃないと」と言われたらしい。父が「今日は診察と検査だから一人でいいと言われました」と言うと「でも、こっちでやる検査はないです。もう全部検査終わってますし」と言われたらしい。とにかく来週もう一度家族を連れて来いって話になったらしいんだけど。

さてさて、なんで情報の共有できてないの?電子カルテだから別の診療科の医師もカルテにアクセスできるよね?アクセスしたら何の検査をして結果がどうだったか全部出るよね?なのに、何の申し送りもしてなかったの?と電話で話を聞いた私は怒り心頭だったし、母も「はあ?」って感じで「おかしいよね?」と苛立った様子だった。

ところで、一人で診察に赴いた父は「手術しなかったらどのくらい生きられますか?」と聞いたらしい。外科医は「そうですね、5年は厳しいでしょうね」と答えたらしい。「じゃあ、手術したらどのくらい生きられますか?」と聞いたら「10年生きられますよ」と答えたらしい。はあ?!

これ、父>母>私への伝言ゲームなのでどの程度正確かがわからないし、医師の言葉が厳密にどういう表現だったかもわからないのだけれど、言うか?それを一人で来た80歳の高齢がん患者に言うか?と再び私は怒り心頭。まあ、「聞かれたから質問に答えたまで」ってことなんだろうが。

がんであることを患者本人に伝えることに異論はないし、知った上でベストの治療を受けられるよう話し合うことは必要だと思う。ただし、信頼関係があることが前提。ところが、「余命」を聞く父も父だが、初対面なのにあっさり答えちゃうわけ?と思った。

母の時も思ったのだけど、「がんの疑いあり(しかも濃厚な疑い)」で検査を受けた時に、検査時にまずインフォームドコンセントの書類は渡さないのか?私が九州がんセンターで手術をした時は、入院前にインフォームドコンセントの書類を渡されて、どの程度の告知を望むのか?治療に関する最終的な判断は誰が行うのか?自分で判断できない状況になった場合にどうするのか?を事細かに聞かれたし、書面でも書かされたのだけれど。母の時も父の時も、そういう書類が一度も出てこない。これ、要確認事項としてリマインダーに入れておかなければ。

ちなみに父は「手術したらまた電気工事の仕事行けますかね?」と聞いて「さすがにそれはちょっと無理だと思いますよ」と言われたらしい。

この無駄足外来と医者の対応に関して、昨夜病院のホームページから「ご意見」を送った。本日午後3時現在、何の返信もない。

医者だからと無条件に尊敬する時代はとっくに終わっている。ところが親世代はちょっと違っている。今回のような重篤な疾患に限らず、病院に付き添って医者に向かってストレートに質問したり、疑問をぶつけたりすると親が困った顔をする。以前も、祖母が80歳くらいの頃、毎週早起きして歯の治療に送り迎えをしていた。すでに結婚して別に住んでいたのに、仕事に行く前に送り迎えをしていた。何回目かの治療の時に「いつまで通うんですか?あと何回ですか?」と聞いたら、その後「もう送り迎えしてくれなくていい。失礼な口を利くからタクシーで行く」と言われた。私はただ治療の先行きを知りたかっただけだ。

もちろん、来週病院に行ったら手術までのスケジュールを出してもらうつもりだ。こっちも毎回仕事を休んで佐賀まで行かなければならないのだから、いつどの程度の時間を必要とするのかの見積もりくらいは出してもらわないと困る。


こういう仕事してると、スケジュールにうるさくなるよね。

2016年11月14日月曜日

父、がんになる その1

母の肺がん手術から数ヶ月しか経っていないのに、今度は父ががんになってしまった。

10月半ば、用事がない限り電話をかけない間柄の母から電話。涙声で「お父さんもがんかもしれない」と言われた。風邪を引いたわけでもないのに何日も咳が続くのでかかりつけの病院でレントゲンを撮ったところ、左肺に腫瘍のようなものが写っていたため設備の整った病院で再検査を受けることとなった。母のときは佐賀大学付属病院に紹介されたのだが、父は持病の狭心症の治療で佐賀県立医療センター好生館(佐賀では「県立病院」と呼ばれている)に定期的に通院しているため県立病院で検査を受けることになった。

最初の検査日は私に急ぎの仕事があったため、弟が一緒に行った。レントゲンと単純CTの結果「がんの疑いあり、ただし間質性肺炎かもしれないが肺機能が著しく低下している」ということで、気管支鏡検査(一泊入院)を受けることになった。検査が終了するまで家族が待機せねばならず、私が仕事を休んで付き添った。本人は検査の説明を受けた時に「胃カメラみたいなやつを使って…」と聞いたらしく「胃カメラと同じ程度の苦痛」と勝手に判断していた。私が「たぶん胃カメラよりもっと苦しいと思うよ」と言っても「いやー、胃カメラと同じやろ」とひどく呑気だった。ところが、検査は30分ほどで終わったのだが、「もう二度と受けん」と言うくらい苦しかったらしい。鎮静剤を打たれていたものの、気管支から肺に直径5mmほどの管をぐいぐい通されるのだから、苦しいのが当たり前だと思うのだけれど。実は検査直前に狭心症の発作を起こし、看護師さんたちを慌てさせてしまった。本人は慣れているのと、付き添っている私は膝にMacBook乗せて請求書を作っていたので全然気付いていなかった。

さて、検査が終了しても医者が私に何かを説明する気配がない。ちょっとイラっとしたので「感じ悪いだろうな」と思いつつも、「画像見せてください」と詰め寄ったら「あ、ご覧になりますか?」と言いながら見せてくれた。病院や医者によって対応が違うので家族という立場では極力情報提示を求めるべきだと思う。

母が最近肺がんの手術をしたこと、ごく初期で転移もなかったこと、母の治療を見てきたので本人も同じ手術を受けると軽く決めていることを告げると医師の表情が曇った。「お父さんの場合、お母さんほど単純じゃないんです。むしろ、お父さんのほうが深刻なんですよね」と予想外の流れに話が向いた。「ほぼ確実に間質性肺炎なんですよ。そうなると抗がん剤も放射線も使えません。肺がんの可能性は高いのですが、お母さんと違って切って終わりではないんですよ」と、なかなかに重大な告知を受けた。

その後も2回、頭部から腹部までのCTやら骨シンチ検査を受けた(どちらも検査だけなので、父が自分で運転して一人で病院に行った)。母の時と違って「手間がかかってるな」と思ったのだけれど、念入りにやっているというより効率が悪いという印象しかなかった。気管支鏡検査の後で父に九州がんセンター(福岡)か、近くがいいのなら佐賀医大にしろと言ったのだが、父は循環器科の先生をとても信頼しているらしく、肺の治療も県立病院で受けたいと言い張る。正直なところ、循環器科の医者がどんなに良くても、肺の手術をするのは別人なんだから関係ないだろうと思ったのだが、これから痛く苦しい治療を受けるのは父なので本人の希望を採用した。

3回の検査の結果を父、弟、私の3人で聞きに行った。間質性肺炎と肺がんがほぼ確定した。「ほぼ」というのは、気管支鏡検査ではがんが確認できなかったのである。医師の説明によると、左肺上葉の一番背中側なので気管支鏡が届かなかったからだという。素人考えで申し訳ないのだが、その位置にあることはレントゲンとCTでわかっていたじゃないか?結局はレントゲン、胸部CT、腫瘍マーカーからがんと判断したらしい。再び素人としては「じゃあ、気管支鏡検査必要だった?!」とイラっとしたのだけれど。こういうこともあって私はがんセンターで受けるべきじゃないか?と強く思ってしまうのだ。

がん(現段階では100%定かではないものの)の大きさは2.5cmほど。左肺上葉を全部摘出するらしい。「え?区域切除とか部分切除じゃダメなんですか?」と聞いたら「間質性肺炎があるので区域切除で切開した部分から空気が漏れると危ないんです。あと、中央部分にもものすごく小さい影が見えるので再発の可能性なんかも考えると上葉全部取ったほうが安全です」と言う。おそらく私の顔に出ていたんだと思う。「ちょっとあんた信用できないわー」的な気持ちが。医師が「医大のほうがいいということであれば、データはすべてお渡ししますし、ご希望の病院で手術を受けていただけますよ。でも、お母さんの主治医のT先生より年上のベテランがここにはおりますし…」と言われたのだが、キャリアが長けりゃいいってもんじゃないだろ?と、ますます眉間にしわを寄せつつ、「お父さん、どうする?どうしたい?」と聞くと「ん?切るよ!」と即答。間質性肺炎はまだ繊維化の兆候は見られないので初期、肺がんも転移の可能性はゼロで初期のIa Ib(Ibに訂正。母と同じだがちょっと腫瘍が大きめ)。

肺の一番外側に腫瘍があって、それが癒着していると胸腔鏡手術では取りきれないのでその時は切開に変更するらしい。

さあ、それじゃ手術の予約か。年内に終われるかな?と思っていると、医師が「僕の仕事はここまでです。あとは外科の担当になりますので、外科で診察を受けて検査を受けていただきます」と言うので私はキレそうになった。病院によってシステムや各科間の連携が違うのは当然だと思うが、あまりに縦割りじゃないか?お前ら役所か?!あ、ここ県立だしな、いや医大だって国立だぞ!とはらわた煮え繰り返りそうになった。

帰り道に弟が「やっぱあれだなー、内科より外科がえらいって感じなんだろうなあ」と白い巨塔的なことを言うので笑いつつ、父に再度「がんセンターか医大で手術したほうがいいよ。データさえあればいいんだから」と説得を試みたのだが「がんセンター遠いし、心臓のことがあるから県立病院がいい」と譲らない。


父はあと数回診察検査を繰り返すのだが、幸い体力自慢なので平気そうだ。「困ったな。がんになったんじゃ、来月現場に行こうと思っとったのに行けんな」と言って母に「がんじゃなくても現場にはもう出るな!」と怒られ、「しょうがない。じゃあ、梅の木の剪定だけは済ませておこう」と言ってもっと怒られていた。実は、前日に剪定中に脚立から落ちて足を擦りむいたらしい。

間質性肺炎があるとちょっとしたことで増悪して「死ぬ」可能性があると聞かされた父は、ますます「好きなものを好きなだけ食って死ぬ」と調子に乗り始めている。「熊本城にも行きたいからEちゃん(近所に住むいとこで最近父と一緒に出かけてくれている)を誘って見に行こう!」と言っていたので、今頃『じゃらん』(紙媒体の方)でリサーチをしているに違いない。


やはり今回も私は「高齢者の医療に対して、子供がどこまで立ち入るか?」が大きな壁になっている。少なくとも父は病院を変える気はないことがはっきりした。そして私は病院を変えさせたい。


父編は母編より長くなるかもしれないと思う。ちなみに父にはくも膜下出血の既往歴もあるので、脳、心臓、がんの大三元だ。


2016年10月20日木曜日

母、がんになる その4

母が肺がん手術を受けてから約3か月後、9月26日に腫瘍マーカーの検査に付き添った。8月に父の狭心症の検査入院に付き添った際、病院のロビーにがん治療に関する資料が揃っていたので、緩和ケアの資料も含め自分用と母用にもらって帰った。その時、資料に目を通していて「5年後生存率」の数値については後で補足しておいた方がいいかな?と思ったものの、ついうっかりそのまま忘れてしまっていた。

父経由で資料を受け取った母は、肺がんの5年後生存率の低さを見て勝手に予後不良と決め込んでしまっていた(肺がんの場合、小細胞がんと非小細胞がんでは大幅に数値が違うのだが、両方合わせて算出しているためどうしても低くなってしまう)。検査に行く前日に実家に行くと、「もう覚悟は決めたから」とか「涼しくなったら遺影用の写真を撮りたい」とか言う。「食欲もないし、背中が痛いし、肺のあたりも痛いし、手術なんかせずに死んだ方が良かった」と愚痴をこぼし続ける。

実は、このちょっと前に入院保険の給付金を請求するために診断書をもらっていたのだが、その診断書に「進行性肺がん」と書いてあったらしく、それ以来激しく落ち込んでいた様子。父も「多分、診断書見て余計に落ち込んだんだろう」と他人事のように言っていた。腫瘍マーカーの検査を受けることに関しても、「先生がね、ちょっと気になるから腫瘍マーカーを見た方がいいって言ってた。なんか転移とかさ、そういうのじゃない?」という具合に事実と推測をごっちゃにして伝えるので、てっきり私も転移の可能性があるため腫瘍マーカーで確認するのだと思っていた。

検査後、主治医の説明を受けたときに「よかったですねー。異常ないですよー。痛みはね、人によっては1年くらい残る人いるからねー。背中の痛みは肺とは関係ないですよ。運動不足じゃないかな?と言われて、私はきょとーんとしてしまった。結局、原発性肺がん(腺がん)でステージIaという一番初期のステージだったらしく、腫瘍マーカーでも転移の兆候は見られないとのこと。術後約半年となる年末に脳のCTで脳への転移の有無を確かめ、転移がなければそれでおしまいらしい。要するに、ほぼ完治しているので健康そのものと言ってもいい状態なのだ。

「診断書に進行性肺がんって書いてあるのを見て落ち込んでいたようなんですけど」と主治医に言うと、「え?そうだったんですか?でも、肺がんって便宜上全部進行性なんですよ。それにしても浸潤性って書いたはずなんだけどなあ。ビックリさせちゃいましたね(テヘペロ)」と言われ、両親も私も脱力した。要するに、肺がんには子宮頸がんのような上皮内がんというものが存在せず、すべて浸潤性がんだということ。あくまでも分類上のネーミングなので、重要なのは小細胞がんであるかどうかと転移の有無らしい。母の場合、ごく初期の腺がん(非小細胞がん)だったので5年後生存率はかなり高くなるのだけれど、80歳の5年後生存率という観点で見ると、あまり高い数値は期待できないはずなのだが。

検査後、病院近くの天ぷら屋で昼食を済ませた。前日まで「食欲がない」と落ち込んでいた母は「あたし穴子がいい!穴子天丼!多分食べきれないから、あんたは少ないのにしなさい」と私の注文を変更させ、挙げ句、なす天一切れとほんの一口のご飯だけ残して「もう食べきれないからあげる」と言われた私は心の中で「ほとんど食ってんじゃん!朝もトースト食ってたじゃん!」と突っ込みを入れた。母は足が悪いので家から出ることは滅多になく、ほとんど歩かないのに1日3食きっちり食べているしビールだって飲む。

遺影用の写真の話がその後どうなったかは知らないが、つい先日母から電話がかかってきた。「あのね、お父さん肺がんかもしれないんだって。お父さんが先に死んだらどうしよう?」と電話口で泣かれた。父に電話を変わるといつものヘラヘラした口調で「この前レントゲン撮ったら、お母さんのがんよりちょっと大きな影が写っとった!」と言う。翌週、弟が付き添って大きな病院でCTを撮ったところ、2センチほどの腫瘍のような陰影がはっきりと写っているものの、肺炎の可能性もあるため気管支鏡による検査で確定するらしい。

ちなみに私は母から電話があった前日に健康診断を受けたのだが、乳がん検査で「要精密検査」となったので、来週は自分のがん検診に行くのだ。

我が家でがん保険に加入しているのは私だけだ。社会人になってすぐ「スーパーがん保険」を契約したのでちょっと安心している。

2016年9月27日火曜日

第1回 福岡翻訳勉強会は大好評!

9月24日(土)、福岡市早良区のももちパレスで開催された福岡翻訳勉強会に出席しました。
東京と大阪では翻訳者の集まりが多く、同業者同士のつながりも結構多いようで、日頃から羨ましく思っていたのですが、行動力溢れる実行委員3人のおかげでとうとう福岡でもセミナー形式の勉強会が開催されました!
大阪からしんハムさん、東京からテリーさんNestさんが講師として来福されました。
他にも東京から帽子屋さん、神戸から猫先生など、各所で有名な翻訳者の皆さまも参加くださり、なんというかアレですよ、フェスに行ったら、観客席にアイアン・メイデン来てんじゃん?!的な。

しんハムさんはCATツールの紹介とその是非について。
今後もCATツール指定案件は増える一方だと思われますが、私たち翻訳者が人間としてどのようにツールと向き合っていくか?が問われる時代なんですね。

午後はテリーさんのWildLightをメインにした翻訳のチェックについて。
実際にWildLightを使いながらの説明に、「おぉーーー!!!!」と心の中でヘドバンしながら夢中になってしまいました。

最後はNestさんの辞書とコーパスについて。
個人的にちょっと前にコーパスをいくつかネットで見つけて使い比べていたので非常に興味深かったですし、英英辞書は本当に大事なのでまたしても心の中でヘドバンです。

お三方とも2時間ずつのセミナーでしたが、「え?もう終わり?」というくらいあっという間でした。
考えてみてください。
2時間の講義が3コマって、ちょっとした大学の授業ですよ。
それが「え?もう終わり?」なのですから凄いですよ。

もちろん、セミナー後は懇親会。
懇親会といえば、酒ですよ。
あ、違う。
出会いの場ですよ(なんか意味違うけど)。
今回も初めてお会いする方がたくさんいらしたのですが、飲み食いにちょっと夢中になってしまって全ての出席者とお話できなかったのが心残りです。

もし、これを見て「椅子をコロコロするんですか?」と変な質問した人と話してない!と思い出されましたらTwitterで @iMYK_ja にお声掛けください。

翻訳を専業としたのは約7年ほど前ですが、その頃は福岡にどのくらい翻訳を生業としている人がいるかもわからず、自宅に引きこもって仕事をして、言葉をかわす他人といえばスーパーやコンビニのレジの人だけ。
SNSがきっかけで九州の翻訳者の集まりに誘っていただいたり、こうして勉強会に参加して関西や関東で大活躍中の方にお会いできたり、テクノロジーの進化は凄いですね。

今、翻訳を勉強中の方も出席いただいたようで、これぞ勉強会の理想とするところではないでしょうか。

個人的にテリーさんがすごいツボだったんですが(突然ブルースクリーンになるなど「持ってる人だな」と思いました)、Nestさんご夫婦のおっちょこちょいぶりも楽しくて、もっともっとお話したかったです。

実行委員のお三方の行動力にも脱帽です。



2016年9月21日水曜日

ステマしま〜す! 大分・筋湯温泉

7月末、ふっこう割で大分県の筋湯温泉に行った。

まず、ふっこう割クーポンの配布が始まった直後はなかなかアクセスできず、クーポンをゲットした後も使い方がわかりづらく、方々でクレームが出ていたのも納得のわかりにくさだった。
もうちょっと簡略化できるはずなのに、どこが作ったシステムだ?とブツブツ文句を言いながら、大分と熊本の宿を予約した。

筋湯温泉は山の中の温泉で、「山の幸」的な食べ物がおしなべて苦手なのでこれまで避けてきたエリアだ。
まあ、「海の幸」も嫌いなものが多いのだけれど。

今回も八女経由のルートで黒川を通り抜けて筋湯へ。
途中、夫婦滝という日本でも唯一2つの滝が合流する珍しい観光スポットに立ち寄った。
あいにく雨が降り出したが、駐車場からちょっと足元の悪い階段を下りていくと滝と渓流。
梅雨の長雨で水量が多く、ごおごお流れていて落ちたら確実に流されてしまう激流だった。
蒸し暑い日で、汗だくになりながら帰り道は足元の悪い階段を上る。
夫婦滝というだけあって、カップルのパワースポット的な売り出し方をしているのか、バカップルたちの願い事を書きなぐった絵馬みたいなものが階段の手すりにたくさんぶら下がっていた。

2つの滝が合流する夫婦滝

激流


今回のお宿は喜安屋というこじんまりした宿で、全室離れ形式で露天風呂付き。
部屋は広々としていて、窓の外はちょっと藪っぽい庭になっている。
比較的新しい宿のようで、まだ庭木があまり大きくない印象だった。
部屋の露天風呂は岩をくり抜いたお風呂で、さほど大きくないが2人で入るには十分な大きさ。
もちろん、大浴場(さほど大きくはない)と貸切露天風呂もあってどちらも大変に心地よいのだが、蒸し暑いので長風呂はできず。
その代わり何回も入った。

離れの部屋へと通じる趣深い廊下

客室の露天風呂


食事は山の幸と川魚はもちろん、豊後牛など盛りだくさん。
大分はニジマスが実に美味しいので、大分を訪れる方は是非食べていただきたい。
どの料理もちょっと一手間かけた料理でとても美味しかったし、量にも満足。
食が細い人ならきっと食べ切れないと思うが、私ら夫婦にはちょろい量だ。

地元の食材をふんだんに使った夕食

夕食は個室でいただくスタイル

朝食も盛りだくさん

大切なことなので何度でも言わせていただくが、蒸し暑い季節の温泉は楽しさが半減するので、紅葉の季節が一番オススメ。
もし雪道の運転も平気という方は、冬の筋湯が最高だと宿のご主人が教えてくれた。
九州の人は雪道用のタイヤ持っていないので、レンタカーを借りるといいらしい。

震災後、観光客が激減したため、九重夢大吊橋は通行料が無料になっていた。
通常であれば、結構な料金だったのでこれ幸いと立ち寄ってみた。
駐車場から眺めたことはあるが、実際に歩いて渡るのは初めて。
意外に揺れる。
中国や韓国からの旅行客も思ったよりたくさん見かけた。
彼らは団体旅行だから目立つんだろうけど。
カナダのバンクーバー郊外にあるキャピラノ渓谷の吊り橋のデンジャラス感には及ばないものの、期待以上に揺れて面白かった。

期間限定通行料無料だった

新しく頑丈な吊り橋も結構揺れる

スリルスポット?

足元が見えるスリルスポット

九重の広大な景色を堪能


帰り道、日田の手前にある慈恩の滝に立ち寄った。
ここは大きな滝ではないが、滝の裏を通り抜けられるので多くの中高年で賑わっていた(平日なので遊んでいるのは中高年ばかり)。
私は滝とか洞窟とか鍾乳洞が非常に苦手で、人工建造物ではダムとトンネルが苦手だ。
滝の裏を歩けると聞いて「蒸し暑いからちょうど良かった」と軽い気持ちで歩き始めたものの、目の前に滝が迫るとちょっと慌ててしまい、滝の裏で軽くパニクってしまった。
ジタバタしながら逃げるように通過したため、ずぶ濡れになってしまった。
こういう場所は冬は大層厳しいと思うので、夏がおすすめだ。
ちょうど通りかかった「ゆふいんの森号」という観光列車に手を振って、あとはどこに立ち寄ることもなくさっさと福岡に戻った。

日田の近くにある慈恩の滝

滝の裏を歩いて通り抜ける

今回はよく滝を見る旅となった。
またしても雨だったため星空を見れず、連敗中。

2016年8月16日火曜日

母、がんになる その3

母のがん治療は始まったばかりで、これから先の見通しを立てるにも来月の腫瘍マーカーの結果を見てからでないと何も考えられないのだが、この2か月程で痛感したのは精神的なケアの体制が不十分だったこと。病院の精神的なケアも万全とは言いがたく、テクニカルな治療は進んでいるのだろうが、心が置き去りになっている気がしてならなかった。そこは家族が支えれば良いのだろうが、家族も当事者である以上なかなか難しい。

私は福岡の九州がんセンターで手術を受けたのだが、精神的なケアにもかなり力を入れていたようで、むしろ「がんの一歩手前であって決してがんではない」私は逆に申し訳なくて困ったほどだ。ところが、佐賀医大ではテクニカルな実績は強調しても、何かが足りない。医師の説明もついても、私には通じたが母が完全に理解していたかどうかは怪しい。もし、仮にだが、医師が「娘さんが理解したんだったら、娘さんがお母さんに説明してあげてね」なんて考えているとしたらどうだろう? まあ、そんなことはないと信じたいが。

高齢者特有なのか不明だが、「誰にも言わんでいいから」と近い親戚にもがんになったことを言わないし、隠そうとする。これは姑も同じで、「お見舞いとか気を遣わせるから誰にも言わない」ということが多々ある。今回はたまたまお中元シーズンと重なり、従姉が私の実家に電話をした時にいるはずのない私が電話に出たので「おばちゃんは?まさかまた入院?」とすぐにバレた。もちろん、瞬時にして従姉から叔母にもバレた。私は近い身内には知らせて、「みんなも健康診断を受けなさい」と啓蒙すべきだと言うのだが。そして、隠したがる人たちは逆の立場になったときに「なんで教えてくれんかった?言ってくれればいいのに!」と言うのだ。

お盆に近所に住む親戚の姉ちゃんを誘って食事に出かけた。食欲のない母の様子を見ておかしいと感じた姉ちゃんが「姉さん、どうした?夏バテ?」と心配するので、唐突に私は「違うんよ。お母さん肺がんになって先月手術したもんでまだちょっと落ち込んで食欲が出らんのよ」と盛大にバラした。母は「ちょっと!」と一瞬焦ったし、姉ちゃんは「えー!」とオロオロしたのだが。ただ、その後母は気が楽になったのか「ねえ、傷口見る?ここにね管が入ってたんだけどね。今はこれだけで手術できちゃうんだからびっくりするよね?」と堰を切ったように話し始めた。母は父と弟と暮らしている。娘の私とは決して仲が良いとは言えない。親しい友達は近所におらず、地元の友達は認知症で会話も成立しない。遠方の友達は施設に入っているらしい。察するに、母は誰かに愚痴をこぼしたかったのではないか。

私は長いことうつ病を患っていたのだが、そのときに一番ありがたかったのが適当な距離がある話し相手だった。まず、血が繋がっているといけない。過度に心配されてしまったり、真剣に励まされたりすると立ち直れないほど落ち込む。だから、責任のない立場の人に時々愚痴をこぼして「大変だねー」と一言言ってもらうとそれで救われた。だから、母にもきっと「へー、大変よねー」と言ってくれる人がいれば救われると思った。もし、それが精神的なケアを学んだ人であれば理想的だと思う。私や弟は実の親子であるから時に冷静さを失う。父は子供っぽい人なのでちょっと無理。近所に住む親戚の姉ちゃんは父の従妹でたまに話を聞いてくれるが、必要以上に関わってくることはない。母とは他人だから。


母、がんになる その2

かくして、去る7月8日、母は肺がんとおぼしき部位を内視鏡を使って切除するための手術を受けた。手術の3日前に入院し、同室の方とも仲良くなっていたのだが、本人は内心「できることなら手術したくない」という思いを抱き続けていた様子。その一方で、早期発見により短期間の入院で寛解した人の例を間近で見聞きしたことで若干前向きになってもいた。

手術当日は福岡にいる叔母夫婦も駆けつけてくれて、賑やかに送り出した。ここまでは全員「ちょっと切るだけだから、まあ明日にはケロリとしているだろう」と非常に楽観的だった。

手術は全身麻酔で行われ、手術中は人工心肺を使用して本人の心臓と肺は止めるらしい。肺の一部を切除するため肺が動いていては正確な切除ができないということに加え、がんと思われる細胞が「フワフワ」したものでキャッチしにくいため肺の空気を抜いて平らにしてから切除するらしい。胸と背中に合計3か所、それぞれ2センチほど切開してカメラやメスなどの機器を挿入する。術後は胸腔内に溜まった血液や水を抜くためのドレーン(管)を留置する。食事は当日夕食から可能。翌日からは体を動かし、できればトイレも自分で行くことを目指すという。私が子宮頸部の切除手術を受けた時もほぼ同様のスケジュールだったので、「まあ、そんなもんだよね」と母も納得していた。気がかりなのは全身麻酔の覚醒後にどの程度吐き気がするか?くらいで。ちなみに、私は麻酔の種類にかかわらずほぼ確実に覚醒した後は吐き続ける。この体質が母似だとしたら母もそうだろうと予想した。

予定通りに午後1時に手術は始まった。予定では午後4時ごろまでということだったが、実際に終わったのは午後5時過ぎ。まず、予定していたセグメントを切除した後に簡易検査を行い、がん細胞であることが確定した。そこで、「念のために」周辺部も切除したという。区域切除から部分切除へとグレードアップしたというわけだ。

母のがん細胞は右肺の下葉の一番下のあたりに位置していた。高齢ということもあり、下葉部を全て切除することは避けた(切除後の肺活量低下によるQOL低下を防ぐため)。手術室から個室へと移動したものの、案の定吐き気が酷い様子。おまけに痛みが尋常じゃない。呼吸するたびに動く臓器の一部を切り取ったのだから痛いのは当たり前だとしても、術前の説明から考えても想定をはるかに上回る痛がり方。どちらかというと痛みには強い方だと思っていたが、座薬を入れても全く効いている気配がない。痛いわ、吐き気はするわ、体を動かすと激痛、呼吸すると激痛と踏んだり蹴ったりの状態に。術前はまったく自覚症状がなく平穏な生活を送っていたのだ。それなのに、ほんの数時間で地獄の苦しみに苛まれている。

本来であれば術後はICUに入るはずだったが、ICUに空きがなくナースステーション近くの個室で回復まで過ごすことになった母。母の希望で病室に泊まることになった私はというと、午後5時を過ぎていたため簡易ベッドを借りることができず、ダイニングチェアを借りてベッド代わりにした。食事は病院内のコンビニで弁当を買った。

痛がる母に何をしてやれるのか?何もない。ただナースコールをして「痛がってますけどぉ」と伝えるのみ。座薬も注射も無制限に投与できるはずもなく、「あと4時間は打てないんですよ」とか、「次は午後11時ごろです」とか言われるだけ。呼吸した時に胸郭が膨らむのを抑えるためにベルトで締めつけてもあまり効果がない。痛みでジタバタするとベルトがずれて傷にあたり、また別の痛みで騒ぎ始める。

とうとう深夜近くになり、付き添っている私のぐったり加減を見た執刀医(若い女性だったので研修医かな?)が「これで痛みが止まるとおもいます」と意を決した顔で注射器を持ってきた。確かに痛みは和らいだようだったが、その後の吐き気がさらに酷くなった。女性執刀医の話では「これ、麻薬指定の薬なので副作用が酷いんです。あと、これは最後の手段なのでこれより強い薬はありませんし、この薬はもう使えません」と。

先に言えよ!打つ前に言えよ!と、ちょっとイラっとした。

翌朝、痛みは若干和らいだものの酷い吐き気と頭痛で目も開けられない状態。痛み止めを経口投与しようにも水すら受け付けない。水を飲み込んでもすぐに吐き気がするので飲むのを拒否する。このあたりから私はイライラし始めた。私は元々薄情なタイプだし、母とはいろいろと微妙な関係だったため突然看病する羽目になって「嫌だなあ」という気持ちの方が強く、「何とかしてあげたい」という気持ちになれなかった。母にしてもそういう私の苛立ちを察しているため、痛さや薬の副作用に加え娘に対するもどかしさもあって相当苛立ちを感じたと思う。

痛みと吐き気で苦しむ母に「お母さん!再発したらどうすんの?手術する?治療受ける?」と聞いたら「絶対にイヤ!」と言った。これに関しては先日も「もう二度とあんなのはイヤだ」と言っていた。


医者は自分が体験したわけではないので、「痛みはコントロールできる」と思っている節があった。痛みや薬に対する副作用は個人差が大きいので、最悪のケースを想定した上でどのような対応をしてもらえるのか事前の確認が必要だった。何度目かの痛み止めの投与時にふと思ったのだけど、もちろんカルテに逐一処置を記載しているとはいえ、付き添っているのであればその間のログを取ることも後々役に立つのかもしれない。例えば、点滴や薬を写メって画像データでEvernoteなどに保存して投与時間や投与後の反応などをメモしておくといいのかもしれない。ただ、「そこまでするか?」という気持ちも同時にあって、私の中でもちょっとした葛藤の連続だった。

たった、一晩で根を上げた私は父に電話して「お父さんが泊まってよ!」と、これまた高齢の父に付き添いを押し付けた。

実家で弟と二人で食事をしながら、「手術受けさせない方がよかったんじゃないか?」とか「他の選択肢を検討した方がよかったんじゃないか?」とか、今後再発や転移があった場合どうすればいいのか?を話し合ったが、もちろん結論は出なかった。


当初の予定よりすべてが1日遅れの回復だったのだけど、術後2日目にしてようやく食事を取れる状態になった母は、「ご迷惑をおかけしましたねー」と電話口で力なく言った。術後1週間ほどで退院できたものの、いまだに食欲がなく、手術を受けたことを悔やみ続けている。そして、その姿を見る家族もまた手術を受けさせたことを悔やみ続けることになってしまった。先日、生検の結果を聞きに行って、「腫瘍マーカーに気になる点があるのでもう一度CT撮って、腫瘍マーカーをもう一度調べましょう」と言われたらしい。ただ、毎度のことだが高齢者からの伝聞情報は劣化する。100%正確に伝わった試しがない。次回の診察日は仕事は休みにして私も同行することにした。もちろん、いろんなサイトで情報を集めている。緩和ケアも含めて。

保険の給付金請求のために書いてもらった診断書に「進行性肺がん」と書いてあったらしく、母は気丈に振舞ってはいるものの意気消沈している。とはいえ、私の目で診断書を見たわけではないので、小細胞がんなのか非小細胞がんなのかも不明。しかも、来週は父が心臓の定期検査で一泊入院するらしく、検査結果を聞きに来てくれと言う。詳細を問い詰めると、結局その日一日中「家族の誰か」の付き添いが必要らしい。

母は今回のことがあり、「涼しくなったら遺影用の写真を撮りたい」とか「今まであんたにずっと洋服を捨てろって言われてたけど、やっと捨てる気になったよ」とか殊勝なことを言い始めた。私は母との間の微妙な距離感が縮まることもなく、いまだに「嫌だなあ」と心のどこかで思っている。

母、がんになる その1

母ががんになるという予想外の事態が発生したので、高齢者の介護やがん治療などを考える上で備忘録として記録していこうと思う。

母について
1937年生まれ、現在79歳。福岡県大牟田市出身。元スモーカー(ヘビーではない)。

5月中旬、かかりつけの病院で定期的に健康診断を受けて、肺のX線写真に小さな影が認められる。佐賀大学医学部付属病院(以下「医大」)を紹介され5月下旬受診。CTでも陰影が認められる。この時に担当医から私に電話がかかってきて、直接説明したいということで両親と一緒に後日医大へ。

担当医からの説明
がんとは確定できない。画像診断でがんと確定できるのは肝臓がんだけで、その他のがんは実際に組織を調べなければ確定できない。この時点でがんが疑われる細胞の大きさは2センチ未満。仮にがんであったとしても初期の原発性肺がんであり、内視鏡による区域切除で切除できる。がんの悪性度が低ければそこで治療終了。検索キーワード「GMM」、「すりガラス状陰影」、「原発性肺がん」、「早期肺がん」、「区域切除」で調べると情報を見つけやすいからとメモをもらう。

母本人に自覚症状は皆無。そのため手術を受けることを渋るものの、早期発見で内視鏡で切除できるのであればその方が長い目で見て負担が軽いのではないか?ということで、担当医、父、私ともに手術を勧め、母の誕生日である7月8日に手術を受けることが決定。本人最後まで渋っていたものの、「これっきりで終わるのなら仕方ないね」と了承。

高齢者の場合、子供がいれば必ず子供が同席する、子供がいない場合は患者より若年の人間が同席して担当医からの説明を受けることになっているらしい。「天涯孤独な人はどうするのか?」と質問したら、「地域の民生委員やお友達でもいいんですよ」とのこと。高齢者の理解力が怪しいからというより、どちらかというと「冷静な証人としての役割」を担ってもらうのだという話だが、「高齢者の理解力が不確かなため」だと今も思っている。


母は福岡県大牟田市出身なのだが、母が住んでいた頃の大牟田といえば炭鉱が基幹産業で非常に景気が良く、活気ある街だったらしい。ただ、戦時中は軍需工場や炭鉱が空襲の標的となっていたため、焼夷弾が自宅の屋根を突き破って落ちてくる、空襲警報がなると防空壕に避難するのが日常的になっていたらしい。雨で浸水した防空壕で一晩過ごし肺炎になり、生死の境をさまよったこともあるらしく、健康診断ではよく肺のX線写真に影が映ると本人が話していた。また、私の個人的な疑問として、大牟田市は高度成長期には北九州と並んで公害が深刻な問題であったこと、母が元スモーカーであったこととの因果関係は不明だが、果たしてゼロと言えるのだろうか?ただ、それを知ったところで現状は変わらないので担当医に質問もしていない。

本人が最後まで渋っていたことに関し、これは後に家族全員が一時的に激しく後悔することににもなるのだが、まず手術を受けることを私は積極的に勧めた。その理由は、内視鏡で切除できる程度の大きさで早期であること。私自身が子宮頸がんの検査で見つかった高度異形成(初期がんの1つ前の段階)を切除し(実際に手術を受けるまで4年ほど経過観察)、その手術が1週間程度の入院で済み、がんのリスクから解放されたこと。しかも、ほぼ痛みらしい痛みがなかったこと。この2つの理由で手術を勧めたのだが、私の中では明確に基準があって、80歳を過ぎたら体に負担が大きな手術は受けさせない、抗がん剤や放射線治療が必要になっても受けさせない。経鼻チューブや胃瘻での栄養補給は受けさせない。さらにこの基準については祖母の介護を通して母と話し合い、母の希望を反映させたものである。決して私がケチだからとか、母とあまり仲良しじゃないからという理由ではない。

今回手術を受けるよう説得したのは、母は79歳で早期発見であったことが大きかった。

ちなみに、手術を受けた本人の母は「自覚症状もなかったのに、あんな辛い目に遭うんだったら手術なんてするんじゃなかった!」と酷く後悔しているし、行き場のない怒りのようなものがある様子。

ここまでの大きな反省点は、早期がんの手術であってももっと情報を収集して話し合いの時間を持つべきだった。最終的な判断は本人の希望を第一にすべきであったの2点。

2016年5月24日火曜日

ステマしまーす!〜その5〜

森の中の旅館にはテレビもいらないと思う。

仲居さんが宿の中を案内するときに息を切らしながら、坂を指差し「ここから2分ほど登っていただくと貸し切り家族風呂がありますんで」とさらっと説明してくれたのだけど、この2分間はまさしく登山体験。
途中「ご自由にお使いください」と杖が用意してある。
「フルマラソンの後なら絶対登れない」と自信を持って言える坂の上には露天風呂が2つ。
そのうちの大きな岩風呂に入ってビックリ!
絶景なんてもんじゃない。
残念なことにモヤっていたので(PM2.5の影響と思われる)、遥か遠くはぼんやりとしか見えないのだが、見渡す限り緑なのだ。
すこーんと開けた景色を見ながら、ちょっと熱めのお風呂を楽しんだ。

後で聞いた話では、ここには大きなガラス窓がはめられていたらしいが、地震でガラスが割れてしまったらしい。
ところがお客さんには「ガラスないほうがいいよ」と評判だというから、まさに怪我の功名。

驚きの絶景貸し切り家族風呂

食事は個室のお食事どころでいただくのだが、窓の外はやっぱり緑の森。
お風呂上がりで汗ばんでいたので、窓を開けて風に当たりながらの食事。
ここで仲居さんが「こんなときにお越しいただいて、お礼と言っては何ですが、お飲物はすべて宿泊料金に込みとさせていただきますので、お好きなだけお酒もお飲みください」と!
「え?それって、ちょっと申し訳ないというか、心苦しすぎます!」と言っても仲居さんはにっこり笑って「お客様に来ていただけて私どもはとても嬉しいんですよー」と。
ということで、期せずしてドリンクがタダになってしまったのだけれど、大酒飲みの私としては逆に追加をオーダーしづらい空気になってしまった。
この穴埋めと言っては何だけど、翌日久住のワイナリーにワインを買いに行った。

熊本の食材を使った前菜

ニジマスのカルパッチョ

熊本名物馬刺(私は食べられないので夫にあげた)

ヤマメの塩焼きと鯛の蒸し物

メインの肥後牛の焼き肉

揚げ物はエビクリームコロッケ


ご飯は「あきげしき」という小国地方で作られているお米で、収穫量が少ないため町外には流通していないらしい。
これが大変いい香りのお米で、お夜食用におにぎりも作ってもらえるので、食いしん坊さんはぜひおにぎりも食べるべし!
どの料理も美味で、新鮮な食材をふんだんに使っていて、文句なしの夕食だった。

仲居さんの話では、この宿は11年前にできたらしいが、山奥過ぎて地元の人もあまり知らないらしい。
できることなら、毎月行きたいくらいに気に入ってしまった。
客室にはコーヒーメーカーとコーヒー豆も用意されていて、緑茶はティーパックではなくお茶っ葉。
お風呂上がり用に冷たい麦茶と水も用意されていて、至れり尽くせりなのだ。

朝食の写真はないが、普通の和朝食(もちろん美味だった)。

チェックアウト後、久住の方までちょっと足を伸ばしてみた。
阿蘇の雄大な景色は震災前と何も変わっていないのだけど、所々山肌が崩れていたり、道路が崩れて片側通行になっていたり、交通量は圧倒的に少なくなっていた。
緑に覆われた阿蘇はこれからが一番気持ちよい季節なので、多くの人に訪れて欲しい。


万緑の季節



福岡方面から車で黒川、久住、阿蘇方面に行く場合、八女から442号線を通って行くルート、日田〜天ケ瀬温泉〜グリーンロード〜黒川というルート、玖珠または九重からやまなみハイウェイを通るルートの3つがあるものの、どのルートも一部規制が続いているようなので運転する際は案内板を見落とさないようくれぐれも注意していただきたい。
事前に熊本県や大分県のサイトで道路情報をチェックするのも忘れずに。


今回は残念ながら阿蘇に行けなかった。
旅館やホテルの中には湯量が減った(出なくなった)ところ、損害が大きいところ、被災者の宿泊に部屋を提供していて一般客は受け入れていないところが少なくなく、阿蘇訪問を見送ったのだが、今年は熊本大分両県の温泉にどんどん行く予定。
ただし、私のお財布と仕事のスケジュール、その他大人の事情もクリアしながら。

次回は湯布院温泉を考え中。
湯布院はメルヘン属性が強いので、私の好みとちょっとズレているのだが。



ステマしまーす!〜その4〜

黒川温泉に行ってきた!

厳密に言うと黒川温泉の近くの飛瀬温泉という所で、国道を挟んで向かい側のエリアにある温泉なんだけど、集合的に今回は「黒川温泉」として話を進めたいと思う。

まず、黒川温泉湯布院温泉は九州でも大人気のスポットで、街を挙げて温泉の魅力をアピールし、国内外の観光客の誘致に大成功をした温泉地である。
そのため、週末ともなると大勢の観光客でにぎわい、人気の宿は早めに予約をしないとなかなか予約が取れない。
特に、離れ形式の宿や客室にお風呂がついた宿は、総数が少ないこともありすぐに満室になってしまう。
黒川温泉は狭いエリアに旅館が密集しており、各施設の部屋数があまり多くないため全体としてもキャパが限られている。

ところが熊本地震の影響でキャンセルが相次いだ熊本、大分両県の温泉旅館。
黒川温泉ですら、1週間前に予約した時点で満室の旅館はなく、空室がかなり多い様子。
静かな環境でのんびり過ごす週末をテーマに、離れ形式で客室にお風呂が付いた宿を探したところ、いくつかある中でも比較的リーズナブルな料金の天河山荘をチョイス。
全6室がすべてお風呂付きの離れで、大浴場はないものの貸し切り家族風呂が2つあり。

前日にGoogleマップと熊本県の道路情報サイトでルートを調べたところ、片側通行の規制はあるもののこれまで通ったことのない八女経由のルートを通ることにした。
まず驚いたのは高速が日曜日にも関わらず、ガラガラだったこと。
いつも行く手を阻む観光バスが皆無と言ってもいい状態。
途中立ち寄ったSAには、正午近いというのに観光バスの姿はなく、一般車両の数もいつもの半分ほど。
八女から小国への国道442号線は「落石注意」の看板が目立っていた。
実際に直径1m弱の落石が路肩に残っていたりして、ちょっとハラハラしながらの運転。

チェックインの前に黒川の温泉街に立ち寄ってみたが、ここはさすがに駐車場が満車でスルー。
満車と言っても、元々のキャパが少ないので仕方ない。
歩いている観光客の姿はやはり少ない。

国道442号線から南の方向へ曲がって、看板の案内に従って進むと。。。

こんな道になって

こんなところを抜けて。。。


サイトにも「道が狭い」という注意事項が書かれていたが、予想を上回る狭さ。
車の運転が苦手な方は、狭い道の運転の練習をするか、コンパクトカーで行くか、なんなら黒川温泉の共同駐車場に車を停めて、宿に送迎をお願いしてみてはどうだろう?
ちなみに、私の感覚ではハマーなら無理だろうが、日本車なら問題なく通れると思う。
早めに宿に着いたので、散策でもしようかと思っていたら仲居さんが出迎えてくれて、チェックイン完了。

今回のお宿 天河山荘

昔の農家を思わせる土間風のロビー
無料でコーヒー、麦茶、地酒をいただける

小国の地酒(甘口・辛口)


山の斜面にある宿なので、バリアフリーとは程遠い

客室のお風呂の外は森

バルコニーも広々
温泉で読む『テルマエ・ロマエ』


これで1泊¥20,000ほど(プランにより若干異なる)だから、かなりリーズナブル!
とにかくこの山の中には他に宿がないらしく、窓の外は万緑。
聞こえて来るのは鳥のさえずりと葉擦れの音だけ。
ただし、虫が多いのでうちわをご用意いただくと便利だと思う(虫除けスプレーでは役に立たないタイプの虫が多いので覚悟のほどを)。

お風呂は源泉掛け流しで、温度もちょうど良かった。
お風呂で温まっては、バルコニーで風に当たって涼み、足先が冷えてきたらまたお風呂に入るをエンドレスにリピートしてしまった。
わずかにぬるぬるしたお湯で、かすかに硫黄の匂いがした。
部屋は8畳の和室と10畳の和室にセミダブルサイズのベッドを2台置いた和洋室タイプ(厳密にはどちらも和室だが)。
大きなこたつがあり、予備の布団もあったので4、5人の家族でも十分なスペースだと思う。
ただし、写真にもあるとおりとにかく坂と階段だらけなので、高齢者がいるご家庭にはおすすめできないのが玉にキズだ。





2016年5月6日金曜日

ステマしまーす!〜その3〜

祝・くまモン復帰!

と言っても、今日は別府を推すのだけれど。

別府と言えば湯量日本一を誇る日本屈指の温泉街なわけだけど、海と山に囲まれた街の様子は「これぞ温泉!ザ・温泉!」という佇まい。
あちこちから立ち上る温泉の蒸気、鼻をかすめる硫黄の匂い。
目を凝らすと老朽部分が見え隠れするホテルや旅館の壁面。
九州人にとって別府は「典型的な世俗的温泉街」であって、「情緒漂う温泉街」というのとはちょっと違う。
私見だが、「情緒漂う温泉街」はおそらく黒川温泉とか湯布院温泉のことじゃないか?と思っている。

別府温泉(別府と一言で言っても、厳密には鉄輪温泉、明礬温泉などサブカテゴリが多々あるので、ここではすべてを集合的に総称して「別府温泉」とする)に足を運んだらぜひ地獄巡りをおすすめしたい。
昭和ノスタルジー漂うひなびた観光地なのだけれど、地獄自体は自然現象なので一見の価値があると思う。
海地獄や地の池地獄など、他ではなかなか見られない地獄が密集していて、中には間欠泉が吹き出す竜巻地獄なんてのもあって、ちょっとしたイエローストーン的スポットだ。


地獄巡りのリーフレット(PDF)はこちら


地獄には名物の温泉卵もあるので、見かけたらご賞味を。
最近は「地獄プリン」という新しい地獄スイーツも登場していて、これがなかなか美味しいのでこちらもぜひ食べて欲しい。

最近の別府・大分エリアは関アジや関サバなど高級ブランド魚あり、とり天あり、豊後牛あり、おいしい食事を堪能できるエリアなので健啖家の方にも満足していただけるはず。
ちなみに私は青魚が食べられないので、関アジのことも関サバのこともよくわからないのだが、かなりお高いということは知っている。
青魚が苦手という人でも、海に面した別府ではタイやヒラメなどの白身魚も楽しめるので、宿の予約の際に聞いてみるべし。
季節によってはフグが楽しめたりもするので、ネットでチェキラ!

別府温泉は昭和40年前後は人気の新婚旅行先だったらしいが、経済の成長とともに一時期低迷するものの、大分の一村一品運動あたりから徐々に盛り返し、今では多くの旅館やホテルがリニューアルしたりして、家族連れもカポーもおひとりさまも富裕層も庶民もみんなが楽しめる宿がよりどりみどりなので、毎回違う宿を選んでもエンドレスに楽しめるのではないか?と思う。

テレビでもお馴染みの杉の井ホテルは別府随一の巨大ホテルで、棚湯という絶景露天風呂が大評判。
温泉プールもあって、これが超オススメ!
夜はレーザーと音楽のコラボショーが見られるのだけれど、そんなことより夜景はきれいだし、塩分濃度が高いプールもあって、ここでプカプカ浮いているだけで汚れた心が芯から癒される。
最近心が荒んでいると感じる方は、プカプカして心をほぐしていただきたい。

杉の井ホテルのお食事はバイキングなのだけど、豪華なメニューがならんでいてコスパがかなり良い。
特に朝食は洋食のメニューが外資系一流ホテル並みに充実している。
このホテルのスタッフには外国人が多いので、必然的に外国人観光客も多い。
騒がしいのが苦手とおっしゃる方は、お風呂とプールだけでも利用できるので、お泊まりは静かな旅館を選んでみてはどうだろう?

アットホームな小さな宿から、皇室御用達の宿までいろいろな宿があるのできっとお気に入りが見つかると思う。
ちなみに、「皇室御用達」の宿に一度泊まったが、申し訳ないほど丁寧な接客でお・も・て・な・しをされるので、こちらも心が荒んでしまった方におすすめしたい。
もちろん、そういう宿はお高いということもお忘れなく。


最新の情報は各自ネットなどでご確認を!

2016年5月5日木曜日

ステマしまーす!〜その2〜

くまモンに飢えてきたのでくまモン動画でしのぐ。

くまモンの復帰を今か今かと心待ちにしつつ、効果が期待できないステマ第2弾は大分編。
現時点で湯布院ICから日出(ひじ)ICまでの区間が通行止めになっているものの、このあたりは下道を通ってもさほど所要時間は変わらなし、山道といっても運転しやすい山道なので冬以外はむしろおすすめ(冬はよく凍結して通行止めになる)。
大分でおすすめしたい温泉、推し泉は九重町の長者原温泉、久住温泉、そして別府鉄輪(かんなわ)温泉。

★長者原★
まず、「九重」と書いて「ここのえ」と読む。
「くじゅう」ではない。
「くじゅう」は「久住」と書く。
ただし、山の「くじゅうれんざん」は「九重連山」と書く。
九州人でもこのあたりが難しく、「今度くじゅうに行こう」と言われるとどちらかわからない。

長者原は九重連山の麓の温泉地で、やまなみハイウェイ沿いに宿が点在している。
標高は1,000mくらいなので、夏に訪れると若干涼しい。
私は梅雨明けくらいを狙って「合宿」と称しては長者原温泉に泊まり、やまなみハイウェイ沿いをジョギングする。
やまなみハイウェイは高速道路ではないので、ちゃんと歩道もある。
ただし、歩道は狭いし、車は結構飛ばしているので注意が必要。
高原ということもあって、実業団の陸上部がトレーニングをしたりするらしい。
ただし、木陰がないので晴れた日のジョギングには帽子、サングラス、水分必携!
コンビニや自販機は皆無!

九重連山の登山口が近いこともあって、山登りの皆さんもこの辺りのお宿はよく利用されるらしい。
私が常宿にしていたのは花山酔というホテル。
こじんまりとしてビジネスホテルっぽいが、清潔感があってリーズナブル。
お湯は硫黄泉の濁ったお湯で、体に良さそう感が満点。
山登りは無理!という方にはタデ原湿原の散策をおすすめしたい。
大きな湿原にはボードウォークがあって、結構な距離歩ける上に、何といっても絶景。
Windows XPの壁紙の世界が広がる晴れた初夏の来訪がおすすめ。

夜は満点の星空が広がるので、天体望遠鏡をお持ちの方は忘れず持参いただきたい。


★久住★
久住は九重と阿蘇の中間地点に位置する。
地図では上から九重、久住、阿蘇の順番。
久住へのアクセスは大分道から行くもよし、阿蘇からやまなみハイウェイをドライブするのも絶景が楽しめるのでレンタカーを借りてでもぜひ!

熊本地震の前の週に久住に行ったのだけれど、久住温泉から東へ20km程行った竹田市に岡城跡という史跡があり、文字通りお城の跡なのだが、石垣しか残っていない。
ただ、この石垣が見事な上に、山城なのでまさしく天空の城。
下から見上げても圧巻だけど、城趾から見下ろした景色も絶景。
とにかく騙されたと思って一度足を運んでいただきたい。
私はものすごく感動した。

久住は誤解を恐れずに言わせていただくと、「ちょっと意識高い系」な場所だと思っている。
最近、夫の従姉のアーティスト夫婦が移住してカフェ&ギャラリーを開いたので尚更そう思うのだけど。
長者原といい久住といい、雑音がなくて鳥の声や風の音が耳に心地よい環境。
ネット環境に問題がなければ、私も移住したいと一瞬だけ思うのだけれど、コンビニは皆無。
冬は雪が積もって道が凍るとなると、ちょっと移住はできない。
宿が密集している黒川温泉と違い、宿はぽつぽつと点在している感じ。
どの宿もおそらくすごく景色がいいはず。
私が泊まったガンジーホテルも視界にペンションが入ってしまうことを除いては、遠くに阿蘇が見え、クヌギ林に囲まれた静かないいホテルだった。
食事も新鮮な野菜や豊後牛を使った和洋折衷のコースで、健啖家の方には到底足りない量だが、味は文句なしだった。
久住では地ビールも作っているらしく、結構なお値段だけど美味しかった。
また、久住ワイナリーというワイナリーも近くにあって、試飲して買うことができるのでドライバーを確保したらぜひ足を運んでいただきたい。
リーズナブルなお値段だったので、私もピノノワールとシャルドネを1本ずつ買った。
サポート制度というのか、年会費¥15,000を払うと春にワインが送られてくるらしい。
オンラインストアもあるので、遠方の方もぜひお試しいただきたい。

九重・久住エリアには花や紅葉が楽しめる場所が多くあるらしく、私の父は春と秋は毎年のように訪れているらしい。
九酔峡というところが紅葉の季節は絶景らしいのだけれど、おそらく字面から判断して峡谷じゃないかと。
他にも牧場が多く、ジャージー牛乳が特産なので、牛乳はもちろんヨーグルトやソフトクリームも有名。
ヨーグルトはちょっと驚く価格設定だが、ほっぺたが落ちる程美味しいのでお財布に余裕がある方はお試しいただきたい。

長くなったので、別府鉄輪温泉は次回たっぷりと紹介したい...というほどの情報はないのだけれど。

2016年5月3日火曜日

ステマしまーす!〜その1〜

公言したらステマにならんやん。

とにかく、私は熊本と大分の宣伝をする!
生まれも育ちも佐賀で、熊本にも大分にも身内はいないが、それでも熊本と大分を多いに推す。
私の推し県だ。

皆さんもよくご存じのように、両県にはとにかく温泉が多い。
私は温泉が大好きなので、熊本と大分には年に何度か行く。
中でも、南阿蘇、天草、九重、久住、別府は私のパラダイスなのだ。
これを読んだら必ず訪れていただきたいくらい推している。
念のため、私は利害関係者ではない。全然ない。

尚、ここで紹介する宿の営業状況は未確認なのでご了承を。

★南阿蘇★
阿蘇では内牧温泉が比較的有名で、JRの駅から近いため車以外で来る人にはとてもアクセスが良いのだけれど、レンタカーを借りて南阿蘇を訪れて欲しい。
ただ、皆さんもご存じのように国道57号線と南阿蘇を繫ぐ阿蘇大橋が崩落してしまったため、かなり遠回りの迂回ルートを通らなければならないけれど。
南阿蘇は長閑で緑が豊かで、とにかく美しい。
山の中腹に位置するグリーンピア南阿蘇というバブル時代に建てられたホテルは、ロビーの照明が随分暗いのだけれど、客室は広々としていて、窓からの眺めは何も遮るものがなく、広大なカルデラと阿蘇五岳、外輪山が望める。
ただし、天気が良ければ。
ここは、温泉がとにかく素晴らしい。
内湯がぬるめととっても熱めの2種類、それに広大な阿蘇の景色を堪能できる大きな露天があって、夜になると星も楽しめる(もちろん晴天の場合に限り)。
ジャージー牛乳のヨーグルトが絶品。
お風呂だけでもぜひ!

麓にもいくつか温泉宿があるので予算に応じて訪れてみて欲しい。

俵山温泉の竹楽亭は、阿蘇大橋からほど近い宿で全室離れ露天風呂付き(だけどそんなに高くない)なのだけれど、現在営業していない可能性が高いので各自確認されたし。


★天草★
天草と言えば、海の幸と夕陽。
車エビ、伊勢エビ、アワビはもちろん、最近は天草大王というその名の通り大きめの鶏も特産らしく、とにかくこれでもかというくらいに料理が出て来るのが特徴。
阿蘇エリアに比べると、温泉のイマイチ感は否めない。
ただ、料理はピカイチなので、ぜひご賞味いただきたい。
8月からは伊勢エビが旬だそうで、海水浴もかねて天草に行かれてはどうだろう?
ドライブコースとしても風光明媚なので、ぜひ展望スポットで車を停めて海や島を眺めて欲しい。
宿は料理に特化した民宿系とお値段もそれなりのリゾート系があるので好みの宿を見つけていただきたい。
ちなみに私はホテル竜宮を常宿としている。

空港もあるので遠方よりお越しの場合は、飛行機の方が便利かもしれない。


★湯の児★
水俣市に近い湯の児温泉は海沿いの小さな温泉街で、数件の旅館が並んでいる。
やはり海の幸が美味で、夏は海水浴客で賑わうらしい。
夏以外は静かなので、海水浴に興味がないという方は夏を外して行くといいのでは。
ちなみに私の常宿は海と夕やけで、夕食朝食ともバイキングなのだけど、新鮮な海の幸が多く、とても美味なのでオススメ。

水俣と言うと水俣病の水俣なんだけど、50年以上経ってもなお記憶が薄れていない人も多く、いろいろと思うことはあるのだけれど、エメラルドグリーンの海を眺めて命の洗濯をして欲しい。
最近水俣ではネロリ栽培に力を入れているらしい。
私はいつも旅先で1時間ほど走るのだけど、ここは海からすぐ山になっているので、走るのには負荷が高すぎるのが難点。


私は偏食なので、馬刺、天草大王については「食べられないのでわからない」としか伝えられず非常に残念なのだけど、家族によると「とても美味しい」とのこと。

重ねて言うが、営業状況は未確認のため、もし興味を持たれた方は各自宿にお問い合わせを。

2016年4月20日水曜日

熊本・大分地震

熊本と大分で被害が大きいから「九州中部地震」でいいんじゃないのかな?

 去る4月14日木曜日午後9時半頃。友達の誕生日にワインを贈るためにFacebookのメッセンジャーで住所の確認をしていたら、突然大音量のアラーム。初めて聞く音に驚き、まず「メールの通知音がこんな爆音に?」と意味不明なことを考え、2秒ほど経って、「あ!」と気付いた瞬間、ガタガタという音とともに世界が横にゆらゆらと揺れ始めた。福岡西方沖地震を思い出して「地震だ!」と気付いたものの、なすすべなく茫然自失の状態。何分も揺れていたような気がしたが、私が一人茫然自失状態にあったとき、猫たちは一斉にこたつの下、ベッドの下に隠れてしまった。揺れが収まって、友達と「大丈夫?」と無事を確認し合った後、ネットの地震速報を見ると「熊本地方震度7」と大きく出ていた。熊本で震度7?テンキー配列は4の上に7があるからミスタイプだろうと思ったものの、本当に震度7だった。

 地震のときは電話が繋がりにくくなる。熊本に身内はいないので、電話を使うことを控えた。地震発生から1時間ほど経ってから、佐賀の両親から電話がかかってきた。ひどく揺れたけど問題はないとのこと。その後、家の中を見て回ったところ、本棚の扉が開いて、中から軽いものが飛び出していた程度で、目に見える損害は何もなかった。ようやくテレビをつけたものの、その後なかなか眠れず。猫もそっと様子をうかがいながら隠れていた場所から出てきた。夜中に余震で揺れる度に猫を撫でながら深夜遅く就寝。

 翌4月15日金曜日午後5時過ぎ、平日プチ別居中の夫(姑が独居老人のため平日数日を実家で生活中)が戻ってきて、猫たちは若干落ち着きを取り戻したものの、神経質なフクちゃんが軽いノイローゼ状態で私や夫の姿が見えなくなると探しまわるので、トイレに行くにも一緒に連れて行き、仕事中もずっと一緒にいた。

 同日、ずっと余震が続き、福岡でも幾度となく揺れた。我が家では食料の備蓄が極端に少なく、非常持ち出し袋もない。おまけに懐中電灯すらどこにあるのかわからない始末。やっと見つけたと思ったら、猫の粗相を発見するためのブラックライトだった。これを機に非常持ち出し袋と非常食の準備をしようと決めた。午前1時頃就寝。自転車用のLEDライトを枕元に置いて寝た。

 4月16日土曜日午前1時半頃、大音量のアラームとガタガタという音、激しい揺れに飛び起きた。さっき眠りについたと思ったが、時計を見ると午前1時半。布団に入ってから30分しか経っていない。前日より激しい揺れ。熊本で被害が拡大している。午前3時半頃再び就寝。

 同日、起床時から頭痛。起床すると夫が「阿蘇大橋がなくなった」と言う。何を言っているのかわからない。パソコンで画像を見せられて驚きのあまり言葉も出なかった。九州、とりわけ福岡や佐賀の若者にとって、阿蘇は車の免許を取ったら何度となく訪れるドライブコース。実際、この前の週に阿蘇ではないが、近くの久住にある温泉に1泊旅行をしたばかり。久住から望む阿蘇五岳の雄大な自然に心を洗われたばかりだった。阿蘇の中でも私は南阿蘇が大好きで、年に1度は南阿蘇の温泉に泊まりに行く。南阿蘇に行くときに必ず通るのが阿蘇大橋。国道57号線と南阿蘇を結ぶなくてはならない橋。その橋がなくなった。崩落してしまった。山肌が崩れて建物も飲み込んでしまった。近くの大学の寮が倒壊して、若い命も飲み込まれてしまった。私の大好きな阿蘇の姿が大きく変わってしまった。雲仙の大火砕流をテレビで見たときと同じ、情け容赦ない自然の圧倒的な力。

 仕事をしようと仕事部屋に行くと、iMacの位置が20センチ以上ずれていた。キャスター付きの家具がちょっと動いていたり、また本棚から軽いものが落ちていたり、その程度のことで済んだ。日中、何度も余震を感じた。ずっと揺れ続けている感じが抜けなくなったので、夕方はテニスで思い切り体を動かした。この夜はいつもと同じ時間に眠れた。

 4月19日、熊本に単身赴任中の同級生にメールしたところ、断水4日目となり収まる気配のない余震に疲れ果てているそう。

 もし可能ならば、せめて九州他県の揺れが少ない地域に逃れることはできないものだろうか?避難所生活が長く続くことは容易に想像できる。余震がいつ収まるのかもわからない。それならどうしても熊本に残らなくてはならない理由がある人以外は、他県に一時的に非難できないのだろうか?避難所や救出現場、捜索現場を撮影する少なからざるマスコミ。その場にいるのなら人の不幸にカメラを向けるより他にやることはないのか?怒りを感じる。熊本だけでなく、九州は地震には不慣れだ。多くの家庭が非常持ち出し袋の用意をしていないと思う。物資供給の手際の悪さ、マンパワー不足、交通網の寸断。問題山積の被災地。阪神や東北で被災を経験した行政担当者の力を借りられないものか。などと、つらつら考えている。

 一刻も早く避難している人に必要な支援が届いてほしい。また阿蘇の雄大な自然をまた見に行けますように。

 オスプレイによる救援物資の搬送を「政治利用だ」と佐賀の愚か者が騒いでいると知り、同じ佐賀の人間として恥ずかしいことこの上ない。

 九州以外の地域の皆さん。熊本も大分もとても素敵なところです。温泉が豊富で、食べ物も新鮮で、山や海が美しいところです。復興したら、ぜひ一度訪れてみてください。

2016年4月5日火曜日

さが桜マラソン2016 〜まとめ〜

今回のフルマラソン覚え書き

★反省点

  • 体重を落とせず、ベスト体重より3kgも重い体で走ったのは、私が怠け者だからではなく更年期のせい
  • やっぱりシューズはアシックスの方が良かったかも
  • ストレッチはいきなり全力で引っ張るな!
★頑張った点
  • 給水・給食以外は歩かなかった
  • 応援している人に「ありがとう」とたくさん言えた
  • 自己ベスト10分更新
★課題
  • 体幹部の筋トレ(腕ふりができていないので、推進力ゼロ)
  • アネッサSPF50+よりも強力な日焼け止め(あるの?)
★ポケット・ポーチの中身
  • スポーツドリンク(250mlのボトル)給水所で2回補充
  • 井村屋のスポーツようかん1本
  • パーフェクトプラスゼリー1個
  • 干し梅(セブンイレブン)5粒
  • イブプロフェン鎮痛剤2錠
  • 芍薬甘草湯(漢方薬)1包
★トレーニングについて
昨年もそうだったけど、レース前に30km走は一度もやっていない。初フル前に30km走をやって外反母趾の痛みが出たので、それ以来ハーフより気持ち長めの距離を数回走るにとどめている。30km走にこだわるのではなく、私の場合は3時間走にこだわっている。今のところしっくりきているので今後もハーフよりちょっと長い距離を確実に気楽に走れるように体を維持したい。

仕事が忙しいこともあって週に3日しか走っていないけど、むしろオーバーワークによる故障がなくなった。他の日に自転車や水泳ができればいいのだけど、右肩の関節を痛めて水泳ができなくなったので、自転車や筋トレをもう少し取り入れようと考え中。

レース前3か月の月間走行距離は120km程度しか走っていない。10月のハーフから4月のフルという間隔が一番無理がなくてプレッシャーもなくていいかも。(来年から桜マラソンが3月の第3日曜に変更だけど)

★今後の目標
ハーフでサブ2.5、フルでサブ5.5を目指すけど、おそらくこれが私の身体能力では限界。

★まとめ
ジョギングを始めた頃は「新しい趣味が増えた」程度のゆるい楽しみだったものの、マラソンを走るようになってからはいろんなことを変えなくてはならなくなった。特に冬場の自己管理には手が抜けないので、見方によっては大変かもしれない。食事制限もするし。ただ、フリーランス翻訳者という仕事柄、自己管理は仕事の一部。風邪を引いても代わりに仕事をしてくれる人がいないのだから、マラソンがきっかけで風邪を引くこともめっきり減り、病気で仕事を休むこともほぼゼロ。

では、人にもすすめるか?というと、それはノー。向き不向きがあると思う。たまたまマラソンが私の性格に合っていたのだと思う。地味にコツコツと取り組むのは翻訳と似ている。ただ、楽器の練習とも似ているのだけれど、ギターはいっこうに練習する気になれず、また長いこと放置している。

さが桜マラソン2016 〜その3〜

ストレッチはそーっと伸ばせ!

軽い気持ちでストレッチしたところ、筋を痛めてしまったおバカさんだが、食い意地根性だけは人並み以上なので、とにかく吉野ヶ里歴史公園を目指して30秒ほどペースを落として走る。
給水所では手ぬぐいを濡らし、左足首に水をかけ、「ほ〜ら、痛くない、痛くな〜い!」と無駄な自己暗示をかけながら吉野ヶ里歴史公園にたどり着いた。

取りあえずそうめんとぜんざいを食べてから考えようと思い、痛む足を引きずりながら、6:4の割合で右に多めに体重をかけながら、「あと少し体重軽かったらな」と己を恨みながら、給食にありついた。
そうめんをお代わり。
毎回遅くて間に合わなかった「さがほのか」にもありつけた。
3つ目のふるまいのぜんざいを食べ終わったあたりに救護所があって、ストレッチ(その時の私には「ストレッチ」という言葉すら恐ろしい)してもらえるのだけど、そんな時間はない!という遅めランナーさんはエアサロンパスをシューシューしてもらえる。

「左足首にお願いします!」とかけ水で冷やした足首にエアサロンパスを吹きかけてもらい、痛みが麻痺してきたのでリタイアせずに頑張ってみることにした。

時々コース脇で、股関節やアキレス腱をじわーっと慎重にストレッチしながら、ペースも若干抑えながら、しかし歩かずに走り続ける。
2回目のトイレで数分並び、ここで痛み止め投入。
この痛み止めは足首ではなく、頭痛がしてきたため。
曇ってはいるものの、やはり暑さで頭痛がしてきたので早めに鎮痛剤を飲んだ。
これが功を奏して、足首の痛みが完璧に止まった。
「おー、痛くないぞ!」と浮かれていると30km地点手前の目印にしていた平和鋼材の建物が見えてきた。
地元なので、いちいち目印が細かく具体的なのだ。
30kmの壁で去年はズタボロになったので、今回は山の景色や田園風景を眺めながら、気をそらしつつ走る。
30km地点を過ぎても、歩くことなく走ることができている。
30km地点を過ぎた折り返しポイントで弟と夫が応援しているはずだけど、姿が見えないものの、こっちは完走できるかどうかが重要マターなので走ることに集中!

35km手前でまた少し痛み出したものの、コース脇でストレッチしていると応援していた女性が近寄ってきて、「エアサロンパスありますからかけましょうか?」と助けてくれた。
足首にかけてもらって、励ましてもらってちょっと力が湧いてきた。
この辺りまで来ると、「完走はできるはず!」と自信も湧いてくる。
ただ、突然けいれんなんてしたら大変なんで、芍薬甘草湯も飲む。
マズい粉末だけど、マズいなんて言っていられる状態ではない。

ゴールまでの距離をカウントダウンしながら、給食をたっぷり食べて最後の給食ブラックモンブランを目指す。
40km地点あたりの名物となった熱血応援団は今年も熱い応援をおくってくれて、涙ぐみながら最後のお楽しみの給水・給食ポイントへ!


ない!
ブラックモンブランがないっ!!!!


軽くショックを受けて、最後の2km。
競技場の敷地に入ってから、トラックまでの数百メートルの遠いこと!
競技場のトラックに入ったときには、達成感と安堵感と嬉しさで痛みもすっかり忘れて全力で走った!

フィニッシャーズタオルをかけてもらい、完走証を受け取って、天然芝のピッチに寝転がってストレッチ(もちろん、じわーっと慎重に)。

さが桜マラソンの魅力のひとつが、競技場ゴール。
40数年前に国体のために建設された競技場で、フィールドは天然芝。
年に何度かJ1サガン鳥栖の試合も行われる立派な芝のフィールドだ。
一般ぴーぽーにはなかなか立ち入るチャンスがない場所なので、格別感が味わえておすすめ。
ファンランでも競技場ゴールなので、ぜひ体験していただきたい。

福岡マラソンのゴールとはえらい違いですぞ!!


足首を痛めたにもかかわらず、なんとかゴールできた上に自己新記録でした。
といっても、5時間38分50秒という遅さだけど、いいのだ!
いろんなコツがわかったから、来年こそサブ5.5を目指すのだ!


夕食は実家の家族に焼き肉を振る舞って、その日のうちに福岡に戻った。
翌朝左足首を見たら、赤黒くなって腫れていたので整形外科に。
痛めた覚えのない右足甲の小指側も痛かったので一緒に診てもらった。

痛みでリタイアの危機まで私を追い込んだ左足首は腱鞘炎だったが、右足甲は疲労骨折の手前の状態とのこと。

今回の教訓
ストレッチは慎重に!!

さが桜マラソン2016 〜その2〜

お祭りは楽しんだ者勝ち。


コースマップ

9時に陸上競技場前をスタートし、Eブロックのランナーがスタートラインを通過したのは8分後。
まず安全のために周りのペースに合わせてペースメーカーになりそうな人を探す。
序盤10kmちょっとは市街地を走る。
佐賀県庁の周りの桜を眺めながらも、この10kmはファンランのランナーが追い上げてきて人と人の間を縫うように走るので、周囲の気配にも注意しつつ、衝突しないように走らなくてはならないので、ペースを維持するのもちょっと大変。
どうせなら、彼らもフルを走ればいいのだよ。
フルの先頭集団の中に、マントを着けて走る知人を発見したので大声で声援を送る。

ファンランのランナーがいなくなると、全体のペースが安定するはずだけど、今年は暑さのせいかペースが上がらない人もいたり、敢えて抑えめで走っている人もいたりで、昨年より渋滞気味。
予定より15秒ほど速いペースで走っていたが、GPSウォッチで何度も確認するのも面倒なので、吉野ヶ里までは感覚的に「心地よいペース」で走ることにした。

12km地点あたりに係留された気球を眺めながら、かなり高めの気温で汗がたくさん出るものの、曇っているので去年よりは辛くない。

12km地点あたりからみた気球


写真で見ると「どんより」しているけど、走る方からするとこのくらい「どんより」じゃないと42kmも身が持たない。
10kmを過ぎると時々歩く人も出てくる。
13kmあたりで最初の給食(バナナ)をもらい、トイレに数分並ぶ。
並んでいる間にストレッチをしながら、「そうだ、今日は本格的に痛み始める前にこまめにストレッチをしよう!」と思いつく。
実にいい考えのはずなんだけど、これが後で。。。

うっすらと陽が射し始めて、暑さを覚悟しつつも首に巻いていた手ぬぐいをかけ水で十分に濡らして首を冷やす。
昨年10月のハーフマラソンで濡らした手ぬぐいが大活躍だったので、今回も手ぬぐいを首に巻いていた。
給水の度に手ぬぐいもびしゃびしゃに濡らして熱中症対策。
神埼に入り、18kmあたりで太ももが張ってきたので、一旦コース脇でストレッチ。

右太もも前部を伸ばし、左太もも前部もぎゅ〜っと伸ばし。。。ピキーッ!!!


あ。。。しまった。。。筋が。。。
えーーー!!!!
あと20km以上あるじゃん!
なにやってんのぉぉぉぉーーー!!!


と心の中で叫んでも時すでに遅し。


いや、気のせい、気のせい。
さあ、よく伸ばしたことだし、走らなくちゃね♪


い。。。痛い!!
左の足首、完璧に筋伸びちゃってるじゃん!!!
すごい痛いじゃん!!!!


シューズの紐がキツ過ぎるのかもよ?
ちょっと落ち着いて、一旦紐を結び直そう。
うん、うん、それがいい。
急がば回れ。
コース脇の縁石に腰掛けて、紐をちょっと緩めて結び直す。
さあ、気を取り直して走ろ♪


ちょ。。。いってえええええー!!!!


お、落ち着け。
ちょっと右に体重をかけて、ペース落とそう。

マズいことになった。
実にマズいことになった。
初のハーフマラソンの4日前にかる〜い肉離れやったときより、おそらくこっちの方がマズいことはバカな私にもわかる。
「途中リタイア」が頭をよぎる。

とにかく冷やせ!
そうだ、冷やすんだ!

給水所で足首にじゃんじゃんかけ水をする。
「冷えるかも?」とかお構いなし。
痛いんじゃ!
走れないくらいに痛いんじゃ!
いや、走れてはいるけど、眉間にしわが寄るくらい痛いんじゃ!

不思議と水をかけるとしばらく痛みが引くので、「かけ水アイシング作戦」を続けて、吉野ヶ里までは頑張ることにした。
なぜ吉野ヶ里か?

どうしてもそうめんとぜんざいが食べたかったから。

さが桜マラソン2016 〜その1〜

たっぷりと花を咲かせた桜の樹の下には死体が埋まっている。

坂口安吾の小説か、梅図かずおの漫画だと思うけど、今でも花房豊かな桜の木を見ると、つい「死体が埋まっているに違いない」と思うくらい、子供の頃に読んだ本(漫画)の影響は大きく、ダムの下にも。。。(以下略)

4月3日(日)に佐賀で開催されたさが桜マラソンを走った。
今回で通算6回目、フルになってからは3回目の参加となるのだけれど、練習不足もさることながら、昨年に比べて3kg増えたままの体重も大きな不安要素。
天気予報では曇りのち雨、最高気温は23℃の予想。
23℃と言うと、軽度の熱中症になった昨年と同じ、マラソンにはかなりの高温。
前日から大会公式サイトでは暑さ対策の情報が出ていたので、完全に夏仕様のウェアで参戦。
250mlのペットボトルにスポ飲入れて、ポケットにはゼリー、スポーツようかん、干し梅と、水分、糖分、塩分をしっかり準備。
万が一のために芍薬甘草湯(けいれん対策)とイブプロフェン(頭痛対策)もポーチにイン!

前日に佐賀に帰省したのだけど、コース沿いの桜はどれも満開で、もし死体が埋まっているとしたらかなりの数になるのだけれど、死体が埋まっているはずもなく。
で、運転しながら気付いたのは桜並木は歩道から見るとたいそう美しいのだけれど、車道から見るとさほどでもない。
ただし、本番でランナーが走るのは車道という細かいことはさておき。
金曜日の夕方から炭水化物制限を解除して、土曜日は心置きなくパンやらご飯を食べてカーボローディング。
金曜の夜に夜更かしして、土曜はいつもより早めに起きたので、土曜の夜は午後9時半に無事就寝。
日曜は午前3時半過ぎから目を覚ましては、ひとりでドギマギしてたのだけど、その後すぐに寝入ってしまい、5時半のアラームで起こされた夫に叩き起こされる始末。
朝から菓子パンやら餅をモグモグ頬張り、燃料満タン。
自称低血圧(実際少し高血圧気味)の夫もファンラン(9.8km)に出場するため、ぼんやりしながら餅を食べていた。

昨年とまったく同じウェアを着て、両足の外反母趾の痛み防止のためのテーピングも巻いて、午前8時に弟の車で佐賀陸上競技場へ。

ファンランに出場する友人としばし言葉を交わし、8:40ごろにスタートブロックへ。

Eブロック中程から

競技場の気球係留


今回は風もなく無事に気球が膨らんでいた。
さくさくっとオープニングセレモニーがすすんで、関係者の挨拶も短く簡潔で、いよいよスタート!


さが桜マラソンの「お祭り感」は年々増していて、博多どんたくや博多山笠のようにこの時期になると佐賀は「そろそろマラソンだね」というソワソワ感がそこかしこに見られる。
コース沿いの住民の皆さんも、慣れてきて手際よく私設エイドを切り盛りしている人あり、暑さ対策のためにランナー用にシャワーノズルで水をまいてくれる人あり、トイレを開放してくれる店舗や企業ありと、どんどん進化している。

もちろん、興味のない人にとっては交通規制で渋滞が発生したりするから迷惑なのかもしれないが、そこは祭りだから。
福岡の人間がゴールデンウィークに天神に車で行って「なんでこんなに渋滞してるんだ?どんたく?やめろそんなもん!」と言うようなもんだから。


今回の目標
  • キロ7分半ペースでできれば歩かず、トラブルなく完走を目指す。
  • できるだけ沿道の応援に「ありがとう」で応える。
  • 給食全部完食する。
さて、どうなることやら?